『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二部 — 蜀の五虎将軍(その2)
今日のところは「蜀の五虎将軍」の”その2“である。”その1“では、蜀の五虎将軍(関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠)の出自、劉備との関連性について考察された。今日のところ”その2“では、五人将軍のパーソナリティーを追っている。それは読み始めよう。
五虎将軍のパーソナリティー
関羽、その自尊心と意志の強さ
関羽は、武力と共にかなりの知性があった。そのパーソナリティーの最大の特徴は、馬超への対抗心(ココ参照)にもみられる自尊心の強さ、そして意思の強さである。
その意志の強さを示すため著者は、毒矢の毒が残っているひじを切開し骨を取り除いたエピソードを披露している。その時関羽は諸侯を招待して宴会を開いていて、肘から流れた血が大皿いっぱいになっても、焼き肉を切り分け酒を引き寄せて、平然としていたという。
さらに著者は、曹操の捕虜になった関羽が、再び劉備の元へ向かったエピソードも添えている。この時関羽は、なんとか自分の元に引きとめたいと思い親切にしている曹操に対し、「白馬の戦い」で目覚ましい働きをして恩義に報い、曹操からの贈り物のすべてに封印し、別れ手紙を残して、去っている。
自尊心の強さ、意思の強さ、そしてそんとく勘定ぬきでひたすら劉備への献身。関羽こそ任侠の論理を体現した紛うかたなき「男伊達」の典型にほかならない。(抜粋)
張飛、絶大な腕っぷしの強さ
一方、張飛は、腕っぷしはめっぽう強いが、教養がないうえ、目だってがさつで柄が悪い。張飛の特徴は何といっても呆れるほどの腕っぷしの強さである。著者は、その勇猛さを表す話は枚挙に暇がないがとしながら、「長坂の戦い」の例をあげている。この時、張飛は、わずか二十騎の手勢を率いて曹操の大軍に対峙し、気迫で圧倒した。
しかし、彼はその武力だけというわけでなく、たとえ相手が敵でも立派な人物には、率直に敬意を表す度量を併せ持っていた。その例として、蜀攻防戦にあたって降伏を断固として拒否した厳顔の態度に感動しその命を助けたことをあげている。
ただこのように君子(身分が高くてりっぱな人物)は敬愛するのだが、小人(身分が低くてつまらない人物)に対しては非常なのが、張飛の最大の欠点だった。(抜粋)
張飛は、部下の兵士を残酷に扱う癖があり、それが災いして泥酔中に部下にの兵士によって殺害されてしまった。
趙雲、謹厳実直なプロフェッショナル武将
趙雲は、派手さはないが謹厳実直で自分に課せられた役割を完全にクリアする、非常に頼もしい人物である。この謹厳実直差を表すエピソードとして、桂陽に着任したときの話がある。このとき土地の長官だった趙範が、機嫌を取ろうと思い、絶世の美女だった兄嫁を趙雲に嫁がせようとした。すると趙雲は姓が同じ「趙」であることを理由に断固として拒否した。
趙雲は、劉備が蜀を占領したときに、成都城内の建物や場外の土地を劉備軍団の諸侯に分け与えようという意見がでたとき、蜀の民衆に返還すべきだと、敢然と反対したり、劉備が関羽の弔い合戦を決行したときに、「敵は曹操であって、呉ではない」と正面切って諌めるなど、常に状況を正確に判断する真っ当な感覚を持っていた。
趙雲は戦場においては、着実な戦い方と共に、ここぞという時は、大胆不敵な攻撃性を炸裂させる、誠に申し分のないプロフェッショナルな武将であった。
こうして破滅型の関羽や張飛と一味も二味も違う硬質な精神の持ち主だった趙雲は、自らの役割を十二分に担いきり、功なり名とげて、建興七年(二二九年)、病死したのだった。(抜粋)
馬超、傲慢な叛逆者
曹操の漢中征伐に際して、父の盟友の韓遂とともに叛旗を翻し、曹操に対抗した。一時、曹操を追い詰める局面もあったが、曹操の謀臣の賈詡の策略に引っ掛かり韓遂と不仲になり曹操軍に大敗してしまう。
剛勇無双ではあるが、二代目のためか、やや単純で傲慢なところがある馬超は、したたかな賈詡に手もなくいっぱい食わされてしまったというわけだ。(抜粋)
馬超にさんざん目にあわされた曹操は、父の馬騰を始め、馬一族を皆殺しにした。馬超は、曹操に対する恨みを抱えながら逃亡をかさね、最終的には蜀攻略を勧める劉備に降伏し、蜀の五虎将軍の一人となった。
馬超の単純さ、傲慢さはその後もなかなか改まらなかった。彼は劉備の傘下に入ってからも、劉備と話すとき馴れ馴れしくあざなで呼んだため、怒った関羽が「殺してやる」と息まいた。劉備がなだめたが、おさまらず関羽と張飛は、会議の席上、刀をついて劉備の側に立ち、形相ものすごく馬超をにらみつけた。ここでハッと気がついた馬超は「私は今にして自分の敗北の原因がわかった。主君をあざなで呼んだために、危うく関羽と張飛に殺されるところだった」といい、以後、敬意をもって劉備に仕えた。
その後、馬超は病死するまで劉備軍団の実力派として着実な働きぶりを見せたが、一匹狼だったころのエネルギッシュな猛々しさは無くなっていた。これについて著者は、
おそらく馬超の長所である叛逆的な勇猛果敢さとその短所の傲慢さは、表裏一体だったのだろう。(抜粋)
と評している。そして、馬超が劉備軍団に下ったのも劉備が仇敵曹操と敵対関係にあるからであり、けっして劉備に惚れこんだためではないと指摘している。
黄忠、老いの一徹
「五虎将軍」の最後の一人黄忠は、文字通り「老いの一徹」の人である。(抜粋)
彼は馬超とは対照的に、劉備の傘下にはいるとあらん限りのエネルギーを完全燃焼させて戦場を駆け巡った。黄忠は関中の戦いで、激戦の上曹操軍の総大将夏侯淵を斬殺し、敵を敗走させるという大殊勲を立てた。この時、彼はすでに七十歳になんなんとしていた。
このような抜群の功績のため、関羽らと同等の官位を受け、その後病死した。著者は、残りの命を燃やし尽くした幸福な人生だったと評している。
著者は、彼ら五人の死に方について次のように言っている。
こうしてみると、劉備の「義兄弟」の関羽と張飛は生涯、無類の匂いを強烈に漂わせつつ、ついに非業の最期を遂げ、彼らより少し遅れて劉備軍団に加わった、かの頼もしき趙雲、またずっと後になって劉備の傘下に入った馬超と黄忠の三人は、ともあれ畳の上でしんだことになる。その死に方まで、いかにも暗示的である。(抜粋)
初出掲載誌:(歴史群像シリーズ「群雄三国志」九二年三月、学研)

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