大分裂で踊ろう —- Avignon(アヴィニョン)
池上 英洋 『フランス 26の街の物語』より

Reading Journal 2nd

『フランス 26の街の物語』 池上 英洋 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

Chapter 3 歴史の断片 / 大分裂で踊ろう —- Avignon(アヴィニョン)

フランス民謡「アヴィニョンの橋の上で」

フランス民謡の「アヴィニョンの橋の上で」は、NHKの「みんなのうた」で放送されたことから日本でも有名である。この民謡の起源をたどると既に一五世紀の書物に記述がみられる。その後何度か似たような歌詞を持つ作品が登場した後、作曲家アドルフ=シャルル・アダム(アダン)が一八五三年にオペラ・コミークで使用したことから人気が高まった。

曲は早いリズムの円舞部とゆっくりとお辞儀をする部分からなり、それが交互に繰り返される。そして、歌詞の内容は、踊る場所のアヴィニョンの橋の上にさまざまな職業の者が登場するというものである。庭師や仕立屋、ワイン業者や洗濯屋、音楽やや修道士などが次々とあらわれ、近世フランスの職業リストのようになっている。

アヴィニョンのサン・べネゼ橋

モデルとなっている橋は、アヴィニョンのサン・べネゼ橋である。ローヌ川にかかるこの橋は、川の途中ですとんと切れている。一一八五年に建造された時は、九二〇メートルの長さがあったが、度重なる戦争や増水により落ちては再建を繰り返すこと四度、ついに一六六九年に洪水で流されて今日のような姿になってしまった。

この橋の名前はある伝説に由来する。べネゼという羊飼いがローヌ川に橋を架けよという神の声を聞いたという伝説である。その話は最初誰にも信じられなかったが、べネゼがためしに大きな岩を抱えて持ち上げて見せると、人々はその言葉を信じて橋を建造した。そして、しだいに橋は巡礼地となり、やがてべネゼは、列聖されて聖人となった。

教皇庁の「シスマ(分裂)」

このアヴィニョンの街には、一三〇九年から約一世紀にわたり教皇庁がおかれていた。これが教皇のアヴィニョン捕因(故事にちなんで教皇のバビロン捕因ともいう)であり、キリスト教世界に何度もおとずれた「シスマ(分裂)」のひとつである。

これは、イングラドとの戦争をひかえフランス王フィリップ四世が、領土内の境界に対して、十分の一税をローマに送るのを禁じたことに端を発している。

このころ、教会の諸活動をまかなうために、あらゆる経済活動の一割を教会に収めるものである。そしてローマ教皇庁から指名や派遣された司教たちは、そこで発生した余剰金をローマ教皇庁に送金していた。そこで、司教の任命を教皇ではなく、神聖ローマ皇帝や諸国の王が行えば、司教たちも余剰金をローマに送らず領内に還流させると考えた。中世期には教皇庁と世俗勢力の間で生殖任命権闘争が繰り広げられていた。

そこでフィリップス王はローマへの送金を禁じるという手段にでたため、教皇庁との対立が決定的となる。コンクラーヴェ(教皇選出選挙)により新教皇クレメンス五世となったフランス人大司教は、フランス王の意向を受けて、一三〇九年にアヴィニョンに教皇庁を移転し、ここがカトリック世界の首都となった

アヴィニョンには教皇宮殿をはじめ図書館などの諸施設が建設され、街を取り囲む城壁も造られた。ジャン・ド・ル―ヴェルら多くの建築家が宮殿の建築に携わり、シモーネ・マルティ―二、マッサオ・ジョヴァネッティなどの画家が装飾にあたった。ルネッサンスの人文主義の礎をきづいたフランチェスコ・ペトラルカも教皇庁に勤務した一人である。

このペトラルカは教皇がローマを離れていることを快く思わず、ローマへの帰還をたびたび進言している。さらに後に列聖されるシエナのカタリナも帰還をすべく運動した。これが実り、一三七七年に教皇庁はローマへと居を戻した。

しかし、ローマで新教皇が選ばれると、フランス人枢機卿が選挙の無効を主張し、アヴィニョンに対立教皇を立て、二人の教皇が並びたつシスマが始まる。そしてこの状況を収集するために一四〇九年にピサで公会議が開かれ、両教皇の廃位と新教皇の選出が採択された。しかしローマとアヴィニョンの両教皇が退位勧告に従わなかったため、結果的に三人の教皇が鼎立ていりつする事態となった。そして、教皇が三人とも廃位され、ひとりの教皇に一本化されたのは一四一七年のことである。

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