ある日本人画家の遺作 — Reims(ランス)
池上 英洋 『フランス 26の街の物語』より

Reading Journal 2nd

『フランス 26の街の物語』 池上 英洋 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

Chapter 2 芸術の物語 / ある日本人画家の遺作 — Reims(ランス) 

一九五九年一〇月、七三歳の藤田嗣治はランスの大聖堂で、妻の君代夫人とともにカトリックの洗礼を受けた。キリスト教徒となった藤田には、あらたに洗礼名が与えられた。レオナルド・ダ・ヴィンチにちなんだ「レオナール」(レオナルドのフランス語読み)である。(抜粋)

ランスとランス大聖堂

一二一一年に建設が始まったランス大聖堂は、完成するまでに二六〇年かかった。シャルトルの大聖堂と並んで、フランスのゴシック教会を代表する教会である。もともとこの地はゲルマン諸民族のフランク人が侵入し入植した地である。そしてフランク人クロ―ヴィスが諸部族を統一する。彼は、自分たちの宗教を捨てキリスト教に改宗する。彼が洗礼を受けたランスは、この故事により代々のフランス国王の戴冠式を行われる地となった。

また、ランスはシャンパーニュ地方の中心都市であり、シャンパンの名産地である。このシャンパンは、一七世紀の修道僧ドン・ペリニョンが二段の発酵時に現象を利用して作ったものである。これが、高級シャンパン「ドン・ペリ」の起源である。

藤田嗣治の生涯

藤田の洗礼式では多くのメディアが駆け付けた。そして、彼は、いずれランスに礼拝堂を立てるつもりだと発表している。この日以来藤田はキリスト教主題の作品を多く手掛けるようになる。晩年の藤田は人気者であることには変わりなかったが、それまでの華やかな生活をやめ、近郊の小村ヴィリエ=ル=バクルフランスに農家を購入し、アトリエとして暮らし始める。

陸軍軍医の家に生まれた藤田は、画家になることを夢見て東京藝大に進み、二七歳で渡仏。第一次世界大戦がはじまり、生活も困窮するが、ピカソやモディリアーニといった画家と共に「エコール・ド・パリ」と呼ばれる画家の一員となった。そして三五歳の頃確立した「乳白色の肌」を特徴とした独自のスタイルで注目を浴びる。彼はこの色の秘密を終生明かさなかったが。アトリエの遺品から貝殻を砕いて顔料を作っていたことがわかる。藤田は、美術界だけでなく社交界でもスターになっていた。

そして帰国後、また戦争が始まってしまう。藤田もシンガポールなどに派遣され戦争画を手掛ける。そのため戦後には戦争責任を追及されてしまう。終戦から五年、ようやくフランスに再入国する。

フランス再入国から五年後の一九五五年、藤田は六九歳でフランス国籍を取得し、名実ともにフランスの画家となった。彼は最晩年を、宗教画の制作に打ち込みながら君代夫人と穏やかに暮らした。(抜粋)

藤田の礼拝堂・ノートルダム・ド・ラ・ペ

ランスの有名なシャンパン業者、G.Hマム社の社長ルネ・ラルーは、藤田のパトロンでもあった。彼は「ランスで礼拝堂を作る」と公約した藤田に敷地と製作費を提供する。

礼拝堂ノートルダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母)は、一九六六年に除幕式を終えた。このロマネスク様式の礼拝堂の内部にはフレスコ画を描き、ステンドグラスは、藤田の原画をもとにランスのシャルル・マルクが制作した。入り口近くに自画像とラルーの肖像、後陣で聖母子像に向かって跪いている君子夫人の姿も描かれている。藤田は一九六八年に亡くなり、ランス大聖堂で葬儀が営まれた。そして、この礼拝堂に埋葬される。

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