夢破れた画家— Arles(アルル)
池上 英洋 『フランス 26の街の物語』より

Reading Journal 2nd

『フランス 26の街の物語』 池上 英洋 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

Chapter 1 人の物語 / 夢破れた画家— Arles(アルル) 

フランス南部のアルルは、ギリシャの入植地として始まり、古代ローマ時代にも、ローヌ川の河口域の拠点として発展した。

ここに、一八八八年二月二〇日の朝、三四歳のフィンセント・ファン・ゴッホが降り立った。ゴッホがアルルの街を選んだかについては、「日本に行きたいけれど行けないなら南仏に行くしかない」と手紙に書いている。ゴッホも当時の印象派の画家と同じくジャポニズムに傾倒していた。

彼は三七歳で北フランスのオーヴェール = シュール = オワーズで亡くなるが、その短い生涯のうち、私たちがよく知る画風が確立されたのが、ほかならぬアルルの地においてである。(抜粋)

ゴッホの最期期は、「奇蹟の三年間」と呼ばれ、後のほとんどの画家はゴッホの影響をうけたとされる。その絶頂期がアルルである。彼が猛烈に製作をしたころ住んでいたのが、「黄色い家」(第二次世界大戦で焼失)である。

まったく作品が売れなかったため、その生活を支えていたのが弟のテオであった。ゴッホとテオの間には、画商のテオが月一五〇フランを払う代わりに、兄の全作品を受け取るという契約がなされていた。テオは兄の生活を献身的に支えていたのである。

ゴッホは、他の画家との共同生活を夢想し、やがてポール・ゴーギャンがやってくる。困窮生活のなかテオの支援を受けていたため、その提案を渋々承諾したのである。

ゴッホは、共同生活の準備を進め、ゴーギャン用の寝室の壁に自身の〈ひまわり〉の絵をかけた。ゴーギャンもゴッホに自画像を送っている。

こうして始まった共同生活であったが、二人の性格や美術理論、作風などの違いから次第にすれ違い多くなってくる。一ヵ月もたたないうちに議論は言い合いにかわった。

自信家で、理論武装をしたうえで冷静に話すゴーギャン。一方のフィンセントは情熱をほとばしらせながら憑かれたようにまくしたてる。・・・中略・・・・ともに現代美術の重要な分岐点となるふたりだが、スタイルがまったく異なっていた。そのうえ、非常に頑固である点だけは二人とも共通していた。(抜粋)

そして、一二月二二日にゴッホがゴーギャンにワイングラスを投げつける出来事が起き、翌日よく知られているゴッホの耳切事件が起きた。ゴッホはベッドに倒れ込んで意識を失った。それを見たゴーギャンは医者を呼んでくれと警察に頼み、自身はパリの戻ってしまう。こうして二人の共同生活はわずか二か月で終わってしまう。

その後ゴッホは、サン・レミの精神病院で、激情的な発作と憑かれたような制作の日々を送る。一八九〇年に生涯で初めて作品が一点売れ、好意的な批評記事も出て来るが、発作は次第に激しくなる。同年パリでテオにあった後、オーヴェール = シュル= オワーズのガッシュ医師の治療を受けながら宿屋兼レストランの小さな部屋に泊まる。そして、七月二七日にピストル自殺をはかり二日後に亡くなった。

最後に著者は次のように記している。

フィンセントが思い描いていた共同生活は破綻して終わった。二人は喧嘩別れをして終わった。一般にはそう思われているし、間違いではない。しかし、その後遠くに離れて暮らした二人の間で、手紙のやりとりが続けられていたことを知る人は少ない。怒りの時期は通り過ぎ、静かに相手のことを思いやるその内容に、ああ、良かったねと思わずにはいられない。(抜粋)

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