曹操姦雄伝説の形成
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一部 — 曹操姦雄伝説の形勢

今日のところは、「曹操姦雄伝説の形成」である。曹操は多才な才能を持つ英雄であったが、『三国志演義』では、悪役として描かれている。本章の主題は、曹操の「姦雄伝説」がどのような形で形成についてである。それでは、読み始めよう。

多才な才能を持つ英雄・曹操

本節の前半は姦雄として描かれる曹操の実像についてである。

後漢末の乱世、あまたのライバルに打ち勝ち、政治・経済・文化の中心である華北を制覇した曹操そうそう(一五五 -- 二二〇)は、多彩な才能に恵まれた英雄であった。(抜粋)

曹操は、政治家・軍事家として一流であるのみならず、学問に優れ詩人としても傑出していた。そして、人材登用においても才能を惜しみなく評価する度量があり、その傘下には文武両面にわたり多数の有用な人材が集まった。

彼の人材登用の方針は「才能」に絞られ、その出身門閥はいうまでもなく、人格や素行までも度外視され、「才能」があれば構わず登用した。そして、曹操はなによりも優秀な武人が好きであった。

曹操といえば、後述のごとく、小説『三国志演義』に集大成されたかたき役としてのイメージが強く、権謀術数を駆使するいかにも「姦雄かんゆう」めいた冷酷非情一点張りの人物と受け取られがちだが、実際の曹操はとてもそんな単純な悪玉ではない。(抜粋)

曹操が、華北においての優位を決定づけたのは、ブレーンの荀彧じゅんいく程昱ていいくの進言を入れ、けん帝の後見人になったことである。これにより当時のライバルではるかに勢力が大きかった袁紹えんしょうに先手を打つことが出来た。そして官渡かんとの戦い」で自軍よりほぼ十倍の大群を率いた袁紹を撃破した。

曹操という人物は危機にめっぽう強いのだ。(抜粋)

そして、華北を制覇した曹操は、江南へ進軍をする。しかし「赤壁の戦い」で惨敗し、全国制覇の夢は消え、魏・呉・蜀の三国分立となった。「官渡の戦い」では、十倍以上の敵を倒したのに、「赤壁の戦い」では十分の一の敵軍に惨敗してしまう。著者は、曹操とは不思議な人物であると評している。

姦雄曹操の形成

曹操はこのように、途方もないスケールの英雄であるが、

この「英雄」は、おそろしくしたたかであり、とても一筋縄ではいかず、冷酷と言われるようが非情と呼ばれようが意に介さず、目的のためには手段をえらばないとうところが、確かにあった。(抜粋)

この「悪人性」は、西晋せいしん陳寿ちんじゅが書いた正史『三国志』には、ほとんど現れない。これを極端化して記しているのは、陳寿没後約約百三十年の裴松之はいしょうしの注に見られる資料である。

この裴松之の注には、曹操と敵対した呉の資料などのように、悪意をもって誇張した「悪人性」を描いたものもあった。『三国志演義』の曹操の悪人性は、この裴松之の注にルーツを持つ

曹操の姦雄伝説

いま、この裴松之の注を手掛かりに、曹操姦雄伝説形成のプロセスをざっとたどってみよう。(抜粋)

乱世の姦雄

この姦雄伝説のはじめは、人物鑑定で有名だった許劭きょしょうの名言である。

あるとき[曹操は]許劭にたずねた。「私はどういう人間でしょうか」。許劭は答えなかった。しつこく尋ねると、こう言った。「君は治世の能臣、乱世の姦雄だ」。曹操は哄笑こうしょうした。(『三国志』「武帝紀」裴注『異同雑語』)(抜粋)

これはまだ曹操が若いころのエピソードであるが、姦雄というまがまがしいレッテルさえ、積極的に肯定してしまう野心家の姿があらわれている。

呂伯奢一家殺人事件

そしてその姦雄の倫理がいかなるものかをあらわしているのが呂伯奢りょはくしゃ一家殺人事件」である。この事件は曹操が「董卓とうたくの乱」のさい、洛陽を脱出する過程で起こった。曹操は一夜を借りようと呂伯奢宅に立ち寄る。呂伯奢は留守だったが五人の息子たちが代わりにもてなしてくれることになるが、食事のしたくの音を聞き、武器を準備しているのだと思い込み、機先を制して一家を皆殺しにしてしまう。ことが終わってから自分の間違いに気がつき、暗澹たる気持ちとなるが、やがて思い直して「わしが他人を裏切ることがあろうとも、他人にわしを裏切らせはしないぞ」と言い切る。

この事件は裴松之の注に引く東晋孫盛そんせいの『雑記』によるものであるが、乱世を生き抜く姦雄の非情さを象徴する事件として強い印象を与える。

この二つの事件は、曹操がまだ世に出ていない頃の話である。これらの話の意図は、策略の限りを尽くしてやがて強大な権力を手中にする曹操という人物が、ごく初期の段階から現れていることを証言することである。

荀彧の自殺

そして、曹操は歴史の舞台に躍り出る。裴松之の注に引かれる姦雄伝説は、曹操が華北を支配しゆるぎない権力を持った後、裏切りに過敏になっていく姿を寸描するとき一段とシリアスになる。

事実、晩年の曹操は、時として権力の魔に魅入れられるような狡猾こうかつさや残忍さを示すことがあり、曹操姦雄伝説に絶好の話柄を提供する羽目になっている。(抜粋)

このような曹操の暗部を示す事件が、その晩年の荀彧を追い込んだ事件である。曹操が五八歳になったとき、後漢王朝から、魏公うじられ九錫きゅうしゃくを受けることになった。これはやがて天子の位を譲り受けることを意味する儀式である。荀彧は、これに反対した。その結果、曹操の不興を買った荀彧は、まもなく死に追いやられた。これは陳寿の正史『三国志』にも明記されていて事実であることは間違いない。

『三国志』荀彧伝に付された裴注の『魏氏春秋』では、これに尾鰭おひれをつけて曹操姦雄伝説を補強している。そこには、

「曹操が荀彧に食物を送ってきたので、器を開いてみるとからっぽだった。そのため、荀彧は毒をあおって自殺した」(抜粋)

と書かれている。曹操は、お前はもう無用の人間であると、中身のない器を送ったのである。

裴松之から『世説新語』、そして『三国志演義』へ

裴松之の注にあらわれる曹操の悪人性や姦雄性を強調している資料は東晋時代になってからのものが多い。そして、同じく東晋時代に魏晋の著名人のエピソード集である世説新語せせつしんご』にも、曹操姦雄伝説を取り上げている。ここでは、『世説新語』から曹操が、召使をだまして見せしめに殺した話を引用し解説している。

このようにして裴松之の諸書から『世説新語』へと、しだいに小説的なふくらみを見せてきた曹操姦雄伝説は、この後、千年近くもさらに潤色を重ねて脈々と語り継がれ、十四世紀なかば『三国志演義』において集大成されたのだった。(抜粋)

初出掲載誌:(「高校通信」九〇年十一月、東京書籍)

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