『憲法とは何か』 長谷部 恭男 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第1章 立憲主義の成立(前半)
「はしがき」が終わり、今日から本編に入る。今日のところは「第一章 立憲主義の成立」である。「はしがき」に「憲法が立憲主義にもとづくものであることを常に意識し続けなければならない」と書かれているが、その「立憲主義」とは何かが、本章のテーマとなっている。
第一章は、”前半“と”後半“に分けてまとめることにする。それでは、読み始めよう。
この章では、冒頭にサンチャゴで開かれた国際憲法学会での逸話が置かれている。そこで、著者に「東洋的な立憲主義があると思うか」という質問が向けられた。それに対して著者の答えは「特殊東洋的な立憲主義などというものは存在しない」というものであった。
「特殊東洋的な立憲主義など存在しない」という筆者の主張は、立憲主義なるものがどういうものかという理解から直接に導かれる。(抜粋)
「近代」という多元的な社会
著者はまず、「ドン・キホーテ」と「ハムレット」を引き合いに出し、「近代」が多元的社会となったことについて説明している。
「ドン・キホーテ」は、「近代」という新たな時代の幕開け対応して生まれた小説である。
中世ヨーロッパでは、神が全ての価値を支配し、善と悪を区別してきた。しかし、近代の社会はその「審判者」が不在であり、神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的真理に解体されてしまう。
宗教戦争を通じて、人々が信奉する「真の宗教」は唯一ではなく複数あること、さらには、大航海を通じてさまざまな異文化に触れ、価値観・世界観は多元的であることを認めざるをえなくなった世界、それが、『ドン・キホーテ』がこの世に出た頃、ヨーロッパが歩み出した近代世界である。(抜粋)
同じことは、同時代にでた「ハムレット」でもみてとれる。「ハムレット」の時代のイギリスでは、唯一の「真の宗教」が分裂し、自らの正当性を標榜する。そして「宗教の分裂」にさいし、はじめて「個人の良心」が意識されるようになった。
ハムレットは、宗教が分裂し多元化した世界で、新たに現れつつあった個人の良心を象徴している。そこでは、個人は真の宗教だけでなく、いかに生きるかも、自ら選ばなければならない。(抜粋)
立憲主義の成立
近代の価値観・世界観は、単に多元化しただけでなく、それらは相互に比較不能である。つまり、異なる価値観・世界観を比較して優劣をつける共通の物差しがない。
そして宗教に典型的にみられる、このような異なる価値観・世界観は互いに比較不可能であるため、それが対立した場合は、簡単に譲歩できずに、血なまぐさい対立に発展する。
そのため、人々が人間らしい生活を送るには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う枠組みが必要である。立憲主義はこうした社会生活の枠組みとして、近代ヨーロッパで生まれた。
公私の区別
立憲主義では、まず人々の生活領域を私的と公的な領域に区別する。
- 私的は領域:各自の価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される
- 公的な領域:考えの違いにかかわらず、すべてのメンバーが共通する利益を発見し、それを実現する方法を冷静に話し合い、決定する
このように、多様な考え方を抱く人々の公平な共存をはかるために、生活領域を公と私の二つに区分しようとする。
しかし、これは「人々に無理強いを強いる枠組み」である、と著者は注意している。なぜならば、自分にとって本当に大切な価値観・世界観ならば、自分や仲間だけでなく、社会全体に押し及ぼそうとするのが自然だからである。
政治プロセスの適正化
価値の多元化した近代社会で、人々の立場の違いにもかかわらず、公平な社会生活の枠組みをつくるには立憲主義の考え方に頼らざるを得ない。特定の価値観・世界観が公共の討議の空間を占拠して、対立する価値の駆逐をはかろうとすれば、そこでの決定は、社会メンバーに共通の利益を実現するものではない。
公的領域と私的領域の切り分けは、個人の自由を保障するためだけなく、政治のプロセスがその役割を適正に果たしていくためにも、無くてはならない。
日本憲法をはじめとする現代諸外国の憲法は、思想の自由、信条の自由、プライバシー等の個人の権利を保障する。また、政治と宗教との分離を定める憲法も少なからずある。これらの規定は、私的な生活領域と公的な生活領域とを区別する境界線を定める規定である。(抜粋)
これとは別に、政治のプロセスがその役割を適正に果たすことを狙いとする仕組みに、マスメディアの表現の自由の保障などもある。この表現の自由により、世の中に多様な情報がいきわたり、政策論争も活発となり、政治的プロセスが、その役割を果たす助けとなる。
また、日本国憲法九条による軍備の制限も、通常の政治のプロセスが適正に働くための規定の一種である。・・・・・中略・・・・憲法九条は、軍の存在の正統性をあらかじめ剥奪し、政治への影響力を滅殺するとともに、政治のプロセスが軍事問題について誤った選択をしないよう、選択肢の幅をあらかじめ制限するという狙いを持っている。(抜粋)
日本の伝統と公私の区分
立憲主義は人間の本性に反している。人はみんなが同じ価値観・世界観を持つ世の中のほうがいいと思い、多元的な世界のために個人的に苦悩したいなどと思わない。
みなが同じ価値観ならば、一人一人が生き方で思い悩むこともなく、「正義」や「真実」をめぐって深刻な選択に直面することもない。
政治思想家の丸山眞男は、戦前の日本型ファシズムの精神がまさにそれであったと指摘している。(抜粋)
戦前の日本では、公的領域と私的領域の切り分けが否定され、すべての人のあらゆる生活領域は、究極の価値を体現する天皇との近接関係によって一義的に意味づけられ、説明されていた。
著者は、近年、公と私の区分は、私的領域での家庭での父権支配や、男による女の支配を隠蔽するイデオロギーとして機能しているのではないかと、評判がよくないと言っている。しかし、その批判の前に、そもそも日本社会に公私の区分が確立しているのかを検討する必要があるとしている。
国家主権の理念が、ときに特定国家内部での人権侵害を隠蔽する危険があるからといって、主権平等・内政不干渉原則をさっさと放棄し、他国での人権侵害が発生しているとみるや、軍隊を送って「人道的に介入」すべきだという話にならないように(こうした原則の転換は、より戦争の多い、したがって人権侵害の多い世界をもたらすであろう)、公私区分がときに弊害をもたらすからといって、この区分そのものをやめてしまおうという話にならないはずである。(抜粋)
この引用部はちょっとドキッとする話ですね。でもよくよく読むと、その話を使って、その上の公私の区分に対する批判について批判しているんですね。人権侵害を許したくないという私の領域の話と、主権平等・内政不干渉の原則という公の部分は区別する必要があるということでしょうか?でも、それについて悩むのも確かです・・・・あ、だから、人は多元性のために悩んでしまうんですねぇ~、ハムレットのようにね♬。(つくジー)
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