『アメリカ革命』 上村 剛 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第6章 帝国化と民主化の拡大 ― 一八〇〇年~一八四八年 (その1)
今日から「第6章 帝国化と民主化の拡大」に入る。ここでは、アメリカ史の転換点と目される一八〇〇年からフランスからのルイジアナの購入、メキシコからのカルフォルニア獲得などの領土拡大を経て、大西洋から太平洋に到達した一八四八年を取り扱う。このころアメリカは、帝国化と民主化が拡大していき、アメリカ革命は終わりを迎えていた。
「第6章 帝国化と民主化の拡大」は“その1”“その2”“その3”に分けてまとめるとする。今日のところ“その1”は、ルイジアナの購入と一八一二戦争までである。それでは読み始めよう。
アメリカの帝国かと民主政の進展
一八〇〇年は、アメリカ政治の転換点である。(抜粋)
この年、ヴァージニアでガブリエルの反乱が失敗に終わり、奴隷の状況が悪化する。そして、第三代大統領にジェファソンが選出され、その後、マディソン、モンローとヴァージニアの政治家が二期ずつ、二四年にわたって政権を務めた。そして、その間に、フェデラリスト瓦解と続けた。
ここで著者は、まず南北戦争までのこの時代をざっくり解説する。
まず、ジェファソン政権では、共和国の拡大につとめ、フランスから領土を購入し、道路や運河の開発を行った。
マディソン政権では、イギリスと再び戦争が起きた(一八一二戦争)。戦争は痛み分けであったが、アメリカはイギリスと対等に関係に立つことで自信を得る。
次のモンロー政権の時代には、スペインや先住民を巻き込んでセミノール戦争を行い、フロリダを買収した。このころよりジェファソン政権から続く西方拡大により、連邦政府のバランスが、かつての北部と南部の対立に加え、西部のタカ派の政治家も台頭した。西部の政治家の代表がアンドルー・ジャクソンである。
一八二〇年代には、北部と南部が対立し、妥協案としてミズーリ協定が結ばれた。外交面では、モンロー・ドクトリンが提示される。
アダムズ政権ののち、ジャクソンが第七代大統領に就任する。選挙権の大幅な拡大を背景にジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれる民主政治が発展する。そして大統領選を目的に民主党が結成される。そして、ジャクソンに反対する側もウィッグと呼ばれる政党を結成した。これが後の共和党にとってかわられる。
この時代の大きな流れとしてまず押さえておくべきは、アメリカの「帝国」化と民主政治の進展とが、同じ事象の表裏として展開されることである。(抜粋)
前者の背景にはヨーロッパ列強のとの確執が解消され、合衆国が連邦国家としての地位を確立することがある。
ナポレオンの台頭とルイジアナの購入
外交面の変化として、フランスにナポレオンが登場した。アメリカは、このナポレオンのフランスからルイジアナを購入する。
ナポレオンは、フランスの植民地だったサンドマング(現在のハイチ)独立運動鎮圧のため、ニューオリンズを拠点とし義弟のシャルル・ルクレールを戦線に送る。ルクレールは革命の指導者のトゥサン・ルーヴェルチュールを捕縛したが、ルクレール自身も病死してしまった。そして、独立が防げなくなるとナポレオンにとってアメリカに拠点を持つ意味がなくなった。
そこで、ジェファソンがナポレオンに対して、ニューオリンズの売却を持ち掛ける。するとナポレオンはニューオリンズだけでなく、スペインから譲り受けたフランス領ルイジアナを想定外の高値で売却すると持ち掛ける。この条件をフランス大使のロバート・リヴィングストンと特使のモンローが受け入れた。そしてアメリカ合衆国は領土を一挙に二倍に増やす。
しかし、この領土拡大は火種を残す。もともとスペインの土地だったため、どこまでアメリカが買ったかよくわからなった。そのため、フロリダの領有権でスペインと争いになる。ところが、フランスがスペインに勝利したためスペイン領フロリダの本国が消滅してしまう。この事態を受けメキシコ(現在のフロリダ)やフロリダで反仏の独立運動がおこった。
一八一〇年九月、スペインに愛着を抱く住民が武装蜂起し、西フロリダ共和国と呼ばれる独立国家が生まれた。現地住民はアメリカの保護を求めた。独立国家がスペインやイギリスの手に落ちるのを恐れたマディソンは、併合宣言を発した。(抜粋)
一八一二年戦争
ナポレオンの快進撃の歯止めとなったのは、イギリスであった。英米はともに相手との貿易を停止するように要求してきた。しかし、アメリカにとって両国とも重要な貿易相手国であり、自国の経済にダメージを与えたくない。
これを受けてイギリス海軍がアメリカ船舶を拿捕する事態となった。そして、イギリスは、国籍の範囲を出生地としたため、アメリカ人も依然として英軍の徴兵の適用範囲となっていた。
そしてアメリカ軍艦のチェサピーク号がイギリス海軍の惚け気を受け乗務員がとらえられる事件が起こる。これに対して、開戦も求める声もあったが、ジェファソン政府は商船の出港禁止措置をとりイギリスへの輸出を禁じる。するとアメリカ北部がイギリスとの交易断絶によってダメージを負う。
このようにイギリスとの関係が悪化し、ジェファソンの次の大統領であるマディソンは一八一二年に開戦を宣言した(一八一二戦争)。このころイギリスはアメリカに反発する先住民に対して武器の支援を行っていたこと、それからこのころのアメリカ人のアイデンティティは曖昧で、アメリカにいてもイギリスの愛着を持つ人も多かった。
そのため一八一二戦争は、直接的には英米の戦争だが、いくつかの重層的な対立を含んでいた。まずカナダをめぐる、イギリスに愛着を持つ王党派とアメリカ人の対立。次にフェデラリストと民主共和派(もとのパブリカン)の対立。最後に、先住民部族間の対立である。(抜粋)
英植民地のカナダからすると防衛戦争となる。独立戦争後に王党派のアメリカ人の多くはカナダに移住していた。また、五大湖周辺とフロリダでは、先住民を巻き込んだ戦争になっていた。
この戦争は、国内の対立も生んだ。連邦議会の少数派だったフェデラリストは、イギリスとの交易によって損害を生むため、戦争に反対した。これは多数派の民主共和派から見れば「非国民」である。
南部戦線の拡大
この一八一二年戦争では、最初に北方のカナダとの戦いになったため、南部の人々は、連邦がカナダを征服し北と南のバランスが崩れるのではないかと、心配をした。
そのため南部の人々は、東西フロリダに侵攻を始め、スペインやそれを支援する先住民、逃亡した黒人たちと戦った。先住民も決して一枚岩でなく、ベンジャミン・ホーキンズの文明化政策に呼応するかで、争っていた。ここで、この政策に反対する立場の先住民はレッド・スティックスと名乗り反旗を上げる。
このレッド・スティックスをアンドリュー・ジャクソンが壊滅的損害を与え、フォート・ジャクソン条約を締結し、自身に協力的な先住民からさえも土地を収奪した。
このころ、英米ともに戦争に疲弊したため条約交渉を始めた。ロシア遠征に失敗したナポレオンが失脚しフランスが衰退したため英国は強気だったが、最終的には開戦前の状況維持を条件に和平条約が結ばれる。その後ヨーロッパの戦争も落ち着き、アメリカ外交も一段落し、モンロー大統領の時代にも、アメリカは五大湖周辺で武装解除やカナダとの国境画定などの合意に達する。
著者は、この一八一二年戦争は、それ以前の連邦政治から変化を生じさせたと指摘している。それまでのジェファソン、マディソン、モンローなどのヴァージニアの政治家ん対して、西部の人びとが支持したテネシーのアンドルー・ジャクソン、ケンタッキーのヘンリー・クレィなどの政治家が台頭してきた。
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