『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三章 最澄と空海 日本仏教の思想2(頼住光子) (その3)
今日のところは「第三章 最澄と空海」の“その3”である。“その2”では、空海の人生と思想を「曼荼羅的思考」をキーワードにして追った。今日のところ“その3”では、さらに空海の思想を掘り下げて、「即身成仏」や「十住心論」にあらわれる曼荼羅的思考について、解説される。それでは、読み始めよう。
3 空海の思想
密教の確立
密教は、インドの大乗仏教の中で最も遅く成立し、中国に伝わる。中国では不空三蔵が玄宗以下三帝から帰依を受け鎮護国家の儀礼として隆盛を極めたが、その後衰退した。空海は、不空の弟子の恵果から密教を伝法され日本に持ち帰る。
空海は『弁顕密二教論』のなかで、顕教は、報身(修行の報で得た仏身)や応化身(衆生の機根に応じて現す仏身)が説く方便の教えであり、密教は法身大日如来が、自らの内なる悟りを自らのために無始無終に永遠に説く教えであるとした。顕教が修行過程にある顕機のための浅はかな教えであるのに対して、密教は身口意において悟りを成就した真言行者(秘根)のための深秘の教えだとし、空海は真言宗開宗を宣言する。
ここで重要なのは、法身説法であると著者は指摘している。
従来、法身仏は説法しない(究極の真理は言語を超えている)とされていた。しかし、密教では、真言行者には、顕教のように修行者に対する教えの言葉は必要なく、そこで交わされる言葉は、仏と仏が感応道交する「自受法楽」のための真言(真理を象徴的に表す、神秘的威力を持つ言葉)である、と考える。この考えは、次の即身成仏思想とも関わっている。
即身成仏
即身成仏とは、顕教(密教以外の教え)の三却成仏(何度も生まれ変り死に変り、極めて長い時間修行して悟る)に対して、この身のままで究極の悟りを得ることであり、三密修行といって身口意における修行が重視された。(抜粋)
この三密はもともと仏の身口意のはたらきを指す(無相の三密)。密教では、修行者が自らの身口意において顕現できる(有相の三密)とする。
そのために修行者は、手に印契(手指を組み合わせたり、蓮華は刀剣を持ったりして仏菩薩の悟りを象徴的に表現)を結び、口に真言(マントラ)を唱え、心に本尊を念じ三昧に住する必要がある。(抜粋)
この三密修行により、仏と衆生は感心道交し一体のものとなり(三密瑜伽)、現世において成仏できるとされた。そして、即身成仏を遂げた者は(自利)、仏として衆生教化、救済を行うことになる(利他)。
ここで著者は、空海の『即身成仏義』から「即身」の偈を引用して、さらに解説を続けている。
ここで、空海は真理世界の成り立ちも、本質として衆生世界と同じもの成り立っていて、真理世界は衆生にとって遠く離れたものでなく、自らの身心において本来的に成就している世界であるとしている。そして、そのような真理世界を象徴的に表わしたものが曼荼羅である。この曼荼羅を介して、行者は身口意において三密加持を行うことにより、この身において仏となって、仏の世界の中に位置付いていく。そして事故がその世界に位置付いた悟りの瞬間、自己と世界の全存在とが、自他不二となり、無限に自他が関係しあい、はたらき合っていく(重重帝網)。
著者は、「即身」とは、この身がすでに本来的に全存在と関係しあい、はたらき合っていることを意味し、行者が三密修行によって本来的世界をこの身に覚証するとしている。
また、著者は最澄も『法華経』等に基づき速疾頓成を説いていて、平安初期に即身成仏思想の盛り上がりがあったと、指摘している。
『十住心論』と曼荼羅的思惟
曼荼羅とは、サンスクリット語で本質を得ることを意味し、仏の最高の悟りの境地を表す。(抜粋)
また、悟りの世界ということで聖なる道場も表し、諸仏菩薩を規則的に秩序的に配置した集合像も曼荼羅と呼ばれた。この曼荼羅はインドでは立体的なものだったが、中国日本では、平面的な図となり、修行や儀式の際に道場に掛けられたり敷かれたりした。
この曼荼羅は、その軸に真言密教の本尊である大日如来がある。大日如来は、諸仏菩薩のすべて包含する仏であり、世界の中心である。曼荼羅の中のすべての仏菩薩が大日如来と結びついて統合される。それは、大乗仏教の根幹である「空 — 縁起」の世界を象徴的に表わしている。
このあらゆる存在を否定せず、究極的な立場から肯定するというのが、空海の「曼荼羅的思惟」である。
空海は、『三教指帰』において、儒教や道教に対する仏教の優越性を、『弁顕密二教論』で、顕教に対する密教の優越性を説いた。そして『十応心論』では、儒教、道教、小乗仏教、諸々の大乗仏教に対する密教の優越性を説く。しかし、空海は密教以外の教えを全否定することはなく、その限界を認めつつ、それぞれを密教を頂点とする思想体系の中に位置づけている。
『十応心論』で空海は、心を次のような十の段階からなるものとしている。
- 異生羝羊心:善悪の道理に暗く、煩悩のままに生きる、煩悩の段階
- 愚童持斎心:本来持つ仏性が少し顕現化され倫理道徳に目覚める。倫理の段階
- 嬰童無畏心:人間の苦をのがれ天上界に憧れ安心立命を求める、仏教以外の諸宗教の段階
- 唯蘊無我心:無我を説くものの構成要素たる蘊の実在を説く、声聞乗(小乗)の段階
- 抜業因種心:十二縁起観により自己の業や煩悩を滅する、縁覚乗(小乗)の段階
- 他縁大乗心:これ以降は大乗仏教で利他を重んじる。ただし本段階では五性各別(開悟成道して成仏する可能性の有無が生まれつき決定されている)で、法相宗(権大乗— 大乗に準じる)の段階
- 覚心不生心:すべてを空じるが否定面に始終する、三輪宗(権大乗)の段階
- 一道無為心:一切諸法は事理相即すると主張する、天台宗の段階
- 極無自性心:万法の事事無礙円融を説く、顕教では最高の段階で、華厳経の段階
- 秘密荘厳心:自己の心を知り尽くし、身に仏の印契を結び、口に本尊の真言を唱え、心に仏を観想することによって、仏と自己とが一体となる、真言宗の段階
この空海の段階について、後代の弟子たちは、種々の解釈を加えた。
- 「九顕一密」:①~⑨は顕教であり、その上に密教の⑩がある。
- 「九顕十密」:上の「九顕一密」より高次元の解釈、⑩のみが密教なのではなく、①~⑨にも既に密教の真理世界が備わっていて、そのままで密教の悟りを表す
このような考えかたからすれば、世俗世界の中に既に真理世界が表れているということになる。これは、現実を絶対肯定する思想であり、空海の教えの真髄であると言える。(抜粋)
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