『アメリカ革命』 上村 剛 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第5章 党派の始まり ― 一七八九~一八〇〇年 (その3)
今日のところは「第5章 党派の始まり」の“その3”である。“その1”、“その2”では、さまざまな国際情勢と国内情勢を受け、しだいに政治が”フェデラリスト”と“リパブリカン”という党派に分かれて争ったことが説明された。今日のところ“その3”では、先住民との対立を通して、アメリカが弱小国から帝国化することについて、最新の考え方を交えて解説される。それでは、読み始めよう。
激化する先住民との対立
ヨーロッパの強国の論理に翻弄されつつ、アメリカは弱小国家としてスタートした。だが、それは同時に、内なる他者の隷属化でもあった。先住民問題である。(抜粋)
ここからは、アメリカの先住民との関係がどのように変化していったかを追っていく。
もともとアメリカ合衆国にとって、先住民は対等な外交交渉相手であった。独立を果たした後ワシントン政権は、先住民との対立関係をどのように処理するかを重視する。
イギリスとの戦争を終えたばかりであるため、ワシントンは先住民との戦争を回避しようと考えた。そのため一七八七年に北西部条例を背景に土地を活用した。これは入植者の新たな土地所有を厳格に制限し、公的な土地として管理するもので、これにより入植者が土地を得られなくなり、西部への進出の意欲を削いで、無用な抗争を防ぐ狙いがあった。
しかし、当時、州になっていない土地にやってきた人々は、課税に反発してきた人々であり、連邦政府の意向に従うような人たちではなかった。そのため、連邦政府に対する反発が起こり、そこに先住民や他国の商人を巻き込んで闘争に発展する。その結果、連邦政府の懐柔策は失敗に終わる。
ジョージア州と接するところでは、マスコギー(クリーク)族のアレグサンダー・マッギヴレイが合衆国との関係構築に尽力し、ワシントンと条約を結ぶ。一方、ジョージア州は、連邦政府の意に反して抗争を継続した。
オハイオ地域では、戦闘が大々的に行われ、イギリスからの武器援助を得た先住民は、連邦軍と互角に渡り合った。先住民は結局、連邦軍に敗れる。
そして、戦況はジョイ条約によりイギリス軍が撤退することにより大きく変わる。先住民軍は後ろ盾を失い、一七九五年に合衆国の土地所有を認めるグリーンヴィル条約を締結した。
このようは抗争の大きな流れは、彼らを永続的なマイノリティとして国内に押し込めていくというものである。アメリカ合衆国は先住民の排斥を通して「帝国」としての道を歩んでゆく。
アメリカ合衆国の帝国化
近年の建国期研究では、このような北アメリカ大陸における合衆国の動向を、帝国と呼んで理解する傾向が有力である。(抜粋)
このような研究は、従来のアメリカ国家論を覆すものである。従来のイメージは、「連邦は弱く、人々は自分の自由を守るために自分を恃む」というものであった。
しかし、そのような「白人男性の自由」という固定観念を取り除いて、アメリカ建国を捉え直すと、国家一丸になって、先住民に対して迫害を推進したアメリカ帝国が見えてくる。
このようなアメリカが帝国であるという理解は、外交関連の理解にもつながる。アメリカは、サンドマング(現在のハイチ)の革命の際には、ハイチは、アメリカに接近し、アメリカはハイチに経済的、軍事的支援を与えた。これは、アメリカがすでに大国と写っているからこそ、理解可能となる。
このようにアメリカを帝国と理解することは、アメリカ革命とフランス革命という大西洋を跨いだ二つの革命を理解の中心に置く従来の近代史理解を相対化することにつながる。(抜粋)
両革命の相互交流が民主化を生み近代を形づくったという、従来の見方は近年では疑問視されている。
より長期的な視野で一八世紀後半から一九世紀前半を眺めるれと、実は独立後のアメリカがやっていたことはイギリスの帝国政策の再来にすぎず、両者が一貫した潮流だとする理解も有力なのだ。(抜粋)
また、カリブ海の島々で革命実践の影響、つまり奴隷という身分をどのように取り去ろうとしたかという研究も増加している。
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