『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
II 統一王朝の興亡 3 世界は広がり思想は深まる —- 元・明 (その2)
今日のところは「3 世界は広がり思想は深まる —- 元・明」の“その2”である。ここでは、「沈周」、「王陽明」が紹介されている。それでは読み始めよう。
沈周(書家)
沈周あざな啓南は、明代中期に大商業都市蘇州に出現した文人画家である。沈家は、曾祖父の時代に財をなし、代々高い教養を身につけて、詩文や画も巧みな教養人であった。このような知識と教養があれば、科挙を受検し高級官僚への道を目指すが、沈家には官僚になることを拒否する家風があった。
蘇州は明の始祖洪武帝のライバルであった張士誠の根拠地だったため、洪武帝は、蘇州の知識人や豪族、商人まで報復を加えた。その不幸な経験により蘇州の人々は権力をともしない不屈の精神を身につけ、在野の文人を中心とする蘇州文化が花開いた。
沈周は、四十近くまで、「糧長(徴税請負人)」として、農民と政府当局の間に立って力を尽くし、家庭は良き家庭人であった。
祖父も父も詩文や画をたしなむ環境で育ち、幼いころから晩年まで研鑽を積み、詩人としても画家としても大成した。彼の後をついで蘇州文化の担い手となった文徴明は、沈周の直弟子であり、文徴明の友人の唐寅や祝允明も沈周のもとによく出入りしていた。文徴明、唐寅、祝允明は、後に「呉中の四才」と総称されて活躍した。(「呉中の四才」のもう一人は、徐禎卿)
王陽明(軍事家・思想家)
王陽明(本名は王守仁)は、「陽明学[ようめいがく]」の始祖である。彼は父も科挙に首席合格したエリートであり、自身も二十八歳で科挙に合格した官界入りを果たした。当時は宦官専横の時代であったためエリート文官だった王陽明は、宦官の大物と対立し、投獄や辺境への左遷などさんざんな目に合う。しかし、各地で反乱軍を鎮圧し、明代随一の軍事家として称賛されるに至る。そして五十七歳で死去するまで軍事家として手腕を振るった。
一方、王陽明は、哲学者・思想家としても有名である。彼は三十代後半で独自の主張を立て、晩年まで思索を深めつづけた。
彼は朱子学の核心である「格物致知(物に格って知を致)、つまり、自分以外の事物について一つ一つその理(原理)をきわめ、理についての知を獲得する、を実践しようとしたが、それは不可能であると結論した。そして、自分の独自の哲学を編むに至る。それは「心即理」、すなわちあくまでも自分の心のなかにある理を基本とする、である。
朱子学では、知を外に求めていたが、陽明学では、あくまでも一人一人の人間の心に中に求める。
こうした陽明学の基本理念である「心即理」、ひいては「知行合一」のダイナミックな主張は、王陽明が書斎で思索する哲学者であると同時に、みずから軍勢を率いて戦場に乗り出す行動者だったことと、深く関りがあるといえよう。(抜粋)

コメント