謝道韞 / 陶淵明 / 顔之推 — 東晋・南北朝 (後半)
井波 律子 『奇人と異才の中国史』より

Reading Journal 2nd

『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

I 古代帝国の盛衰 3 花開く貴族文化 — 東晋・南北朝(後半)

今日のところは、東晋・南北朝時代の”後半“である。”前半“に続き「謝道韞」「陶淵明」「顔之推」のが取り上げたれている。それでは読み始めよう。

謝道韞(貴族の女性)

謝道韞しゃどううんは、中国のすぐれた女性の代名詞とされる。彼女は東晋の大貴族陽夏ようかの謝氏」の出身である。叔父の謝安しゃあんココ参照)は、東晋中期の政権トップを務めた政治家で、彼らは琅邪ろうや王氏」とは異なり新興貴族であったが、謝安の活躍により王氏をしのぐ勢力となった。

そのような大貴族の中に生まれた謝道韞は、その才気でいつも注目を集めていた。やがて、彼女は王義之おうぎしの次男の王凝之おうぎょうしと結婚するが、王凝之がボーっとした性格であったため、叔父の謝安に「王さんみたいな人がいるとは思わなかった」と愚痴ったという。

謝安が死去するや、東晋王朝は衰亡の坂を転がりだし、謝道韞の運命も暗転しはじめる。(抜粋)

民衆反乱の「孫恩の乱」が起こり、謝道韞の夫の王凝之は反乱軍に殺されてしまう。

しかし、謝道韞は次女に輿こしをかつがせると、みずから刀をふるって屋敷の門から出撃、反乱軍の兵士数人を切り殺した。(抜粋)

そして生け捕りになってからも、反乱軍の首領と堂々とわたりあい、迫力におされた首領は、彼女とその家族に手出しができなかった。そして彼女はその後も人々に敬愛されながら、平穏な老後をおくった。

陶淵明(詩人)

隠遁詩人田園詩人の代表格である陶淵明とうえんめいあざな元亮げんりょうは、東晋から劉宋りゅうそうにかけて活躍した。彼の曾祖父、陶侃とうかんは東晋王朝初期の実力者で巨万の富を積んだが、しだいに零落し陶淵明のころにはすっかり貧乏になってしまった。

陶淵明は子供のころから農耕と読書に明け暮れ、二十九歳で地方官の職につくと、出仕と辞任を繰り返した。そして、四十一歳の時五斗米ごとべいの為に腰を折り郷里の小人しょうじんに向かうあたわじず(たかだか五斗の扶持米のために、田舎の小役人にへいこらできるものか)」と郷里に帰り、死ぬまでの二十年間を、晴耕雨読の隠遁生活をした。

陶淵明が隠遁生活をしたころから東晋王朝が末期症状となり、ついに軍人劉裕りゅうゆうが簒奪される。劉裕は、劉宋王朝を立てる。陶淵明は、劉裕と同僚だったことがあり、加えて曾祖父の陶侃は東晋王朝の功臣だったことから、彼の著作にはけっして劉宋の年号を使わなかった。

陶淵明の詩の半数には酒のことが歌われている。彼は酒を愛し悠然たる境地に遊んだ。しかし著者は、以下のように指摘している。

そんな彼の心の奥底に、かつての同僚劉裕が差配する時代状況に対する、屈折した怒りと頑強な抵抗の意思が秘められていることを、見落としてならないだろう。(抜粋)

顔之推(文章家)

顔之推がんしすいあざなかいは、学問を重視する南朝貴族の顔氏の一族であり、東晋、劉宋、せいりょうと王朝が目まぐるしく交替する時代に翻弄され辛酸をなめ尽くした。彼なその経験から顔氏家訓がんしかくんを残した。顔之推は、梁の元帝に仕えていたが東魏とうぎ侯景こうけい軍の捕虜になるという体験をする。そこから生還すると元帝の文化官僚として活躍する。しかし、北朝西魏ほくちょうせいぎの軍勢が攻めてきて元帝は殺害され顔之推も妻子とともに捕虜になり長安に連行される。

彼は、このあとも流転をしつづける。家族とともに江南を目指して西魏を脱出するが、北朝の北斉ほくせいに身を寄せる羽目になる。北斉に漢民官僚として生きること二十年、北斉が北周ほくしゅうに滅ぼされ、またも長安に強制移住されられる。そして、ずいの文帝が中国を統一した二年後にこの世をさった。

顔之推は梁・北斉・北周・隋と四つの王朝を遍歴し、三つの王朝の滅亡に遭遇しながら、子孫にのこす訓戒のスタイルをとった『顔氏家訓』(全ニ十巻)を書きつづけた。この書物の内容は南北朝の社会情勢の分析から学問論・言語論に至るまで多岐にわたり、明晰めいせきな文章とあいまって、まさに古今の傑作にほかならない。(抜粋)

顔之推の残した『家訓』の効果のためか彼の子孫には、大歴史家・顔師古がんしこや大書家・顔真卿がんしんけい]などの傑出した人物が現れる。


関連図書:顔之推(著)『顔氏家訓』、講談社(講談社学術文庫)、2018年

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