ドニ・ディドロ『運命論者ジャック』
イタノ・カルヴィーノ 『なぜ古典を読むのか』 より

Reading Journal 2nd

『なぜ古典を読むのか』 イタノ・カルヴィーノ 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

ドニ・ディドロ『運命論者ジャック』

前回はヴォルテール『カンディード』についてであったが、今日のところはドニ・ディドロ『運命論者ジャックとその主人』についてである。この小説は、現代文学の父としてのドニ・ディドロの評価を一層高めたということである。それでは読み始めよう。

『運命論者ジャックとその主人』の独創性

現代文学の父としてのディドロ [一七一三 - 一七八四]の評価は高まるいっぽうで、それは彼のアンチ・ロマン、メタ・ロマン、ハイパー・ロマン作品である「運命論者ジャックとその主人」の功績に負うところが多いが、この作品の、ゆたかさや独創性のインパクトは、いくら探求してもきりがないだろう。(抜粋)

読者と作家のせめぎ合い

当時の小説家の目標であった「本を読んでいることを読者に忘れさせ、あたかも彼自身が物語を生きているように思わせる」ということをディドロは反転させた。彼は、物語を語っている作者とそれに一生懸命に耳を傾ける読者のせめぎ合いを前景に持ってくる。読者の好奇心、機体、幻滅、反論などと作為の話の意図、論争、気紛れなどがせめぎ合う。そしてそれは二人の主人公の対話の枠としての対話になり、それがまた対話の枠となる。

読者と書物の関係を、受け身の受容から継続的な問題提起や批判精神にするために用いたこのような手法は、そののちにプレヒトが芝居で実現しようとしたことである。ただし、プレヒトが彼独特の教育的意図に関連して用いているが、ディドロはあらゆる先入観を解体するのに用いる。

「潜在文学」の先駆

ディドロはレーモン・クノーが愛した「潜在文学」的思考の先駆ともなっている。彼は、読者に向かって幾つかの可能性を示し、それぞれ気に入った進み方を選べばよいといわんばかりに選択を示す。レーモン・クノー「あなたまかせの物語」のモデルを組み立てるとき、この話の続きは読者にまかせるというディドロの呼びかけに反応している。しかし、ディドロは、すべての可能性のなかでもっとも「小説らしく」ない結果以外を没にしてしまう。

じっさいディドロが証明したかったのは、話はひとつしかあり得ないとうことだった。(抜粋)

彼は「潜在文学」の先駆であるとともにこれを否定してもいる。

現実世界を語るうえでの「入れ子構造」

『運命論者ジャック』は、あちこちで話がもうひとつの話にすっぽりとはめ込まれた「入れ子」式になっている。この方式は、「ポリフォニックな物語」とか「メニッペオ」あるいは「ラブレー式」と呼ばれる手法である。

しかし、この方式を好きで使っているのではなく、それが「彼にとって、現実世界におけるただひとつの真実を語る」方式だからである。現実世界は、線形であったり文体的に均質であったりしないが、究極の配列は論理的である。

『トリストラム・シャンディ』と『ドン・キホーテ』の影響

ディドロの『運命論者ジャック』は、スターン『トリストラム・シャンディ』の影響を受けている。ディドロが自由奔放で脱線をいとわないこの英文学を表現における「真実」の探求の旗印とした。

しかし、二人の人間が冒険をかさねる悪漢小説である『運命論者ジャック』と家庭内のエピソードが中心の『トリストラム・シャンディ』はまったく似ても似つかない小説である。この2つの小説の類似性はもっと遠くにある

すなわち、どちらの場合も本当の主題は原因の連鎖であり、近・現代人にとっては運命をつかさどる神の役目をはたす、もっとも取るに足らないものに至るまでの、あらゆる出来事を決定する分離不可能はあらゆる状況の集合体だ。(抜粋)

ディドロにとって詩学の独創性はそれほど重要でなく、むしろ、書物が他をおぎない合った文化的コンテクスト全体が重要であった。

スターンは、ディドロだけでなく世界文学に影響を残した。それは、ロマン主義的アイロニーに流れ込む「屈託のない語り」であり、「ユーモアの爆発」であり、「エクリチュールの軽業である。

また、スターンもディドロも公然のモデルとしたのは、セルバンテス『ドン・キホーテ』である。スターンは、カリカチュアを思わせる数少ない線で十分に性格づけをした人物の創造として、ディドロは、悪漢小説的な冒険とフランス・ユーモア小説の伝統として影響を受けている。

『運命論者ジャック』の主従関係と男女関係について

『運命論者ジャック』のジャックと主人は、『ドン・キホーテ』と同じく主人と従者の関係である。しかし、主従の関係であると共に、あけっぴろげは友人関係でもある。重要な決断は常にジャックが行い、ジャックは命令に従わないこともある。しかし、それはある限界までのことである。

ディドロが描くのは、個人の質の相互的な影響を土台とする人間関係であって、[一見、相手を尊重しないように見えても]社会的な役割を消去するようなことはなく、それでいて一方が他方を押しつぶすこともない。(抜粋)

当時の過渡的状況における透明な判断が加えられているだけである。

同様なことが性的関係にも言える。ディドロが「フェミニスト」であるのは、自然な発想によるものであって、偏見に根差したものではない。

ジャックと運命論

ジャックは運命論者(すべてのことは天に書かれている)であるが、彼は忍従や消極性を持たず、逆境にあっても常に決断力の強さを見せる。逆に主人の方は、自由意思と個人の意思の尊重を重視するが、すぐに落胆し事件に影響しやすい。

ふたりの会話は、哲学的には初歩的である。しかしどうやらスピノザライプニッツ必然性の理論を原点とするようである。『カンディード』でヴォルテールはライプニッツを批判するが、ディドロは、ライプニッツの味方である。

しかし、ライプニッツよりも幾何学的に不可避な単一の世界の客観的合理性を唱えたスピノザに与している。ライプニッツにとって、この世界は多くの可能な世界のひとつであるが、ディドロにとっての可能な世界は、この世界だけであり、人の素行も、善悪を問わず、人がそれぞれの瞬間に遭遇する状況の中でどのように行動できるかで価値が決まる。

ディドロは、決定論的現世にこそ、個人の自由を推進する力があると予見していた。意思や自由な選択は、必然に穴をあけられる時のみ有効でると彼は考えていた。

この決定論は以前は宗教の発想法であり、そして生物学や経済などの人々の心理のなかで頭角を現すディドロ後の二世紀の時代にも、通用した。
今日、私ちこんなふうにいうことができる。すなわち、いっぽうでは主意説と行動主義の結果が破壊でしかなかった時代には、これらのことが必然性の自覚を決定して、現実の自由への道をひらいていた。(抜粋)

『運命論者ジャック』の諸説手法

『運命論者ジャック』には、何かを「教える」とか「証明する」というものは、決してない。彼らの変幻自在な行動にしっかりした理論はない

馬が、ジャックの手を引いて絞首台のある丘に何度も行く場面は、啓蒙の寓話とも考えられるが、一方「黒い」ロマン主義の予告でもある。また、主人が一人の男を殺し、ジャックが盗賊となり、やがて城館が略奪されるのを救うという、数行のセンテンスに要約された部分は、ロマン主義パトス十八世紀の簡潔さとの衝突がある。

人生のできごとは、それぞれが独自であり、しかもおなじものがふたつないから、規範や分類にまとめることはできない。(抜粋)

アンチ・哲学小説としての『運命論者ジャック』

『運命論者ジャック』が、アンチ『カンディード』であるなら、それはアンチ哲学小説であるからである。彼は「真理をひとつの形態のなかに、命題を説くための寓話にとじこめることはできない」と確信していた。

また『運命論者ジャック』は、アンチ「哲学」的であるとともに、アンチ「小説」でもある、今日の私たちが真の文学的エクリチュールと認識する者こそ彼の方法である。

『運命論者ジャックとその主人』がミワン・クンデラによって現代的な演劇に書き直されたのは偶然ではなく。彼が『存在の耐られない軽さ』が情緒小説と実在小説、哲学とのアイロニーを混ぜることにおいて、現代でもっともディドロ的であるのも偶然でない。


関連図書:
ドニ・ディドロ(著)『運命論者ジャックとその主人』、白水社、2022年
ロレンス・スターン(著)『トリストラム・シャンディ』(上・中・下)、岩波書店(岩波文庫)、1969年
セルバンテス(著)『ドン・キホーテ』、岩波書店(岩波文庫)、2001年-2008年
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』、集英社(集英社文庫)、1998年

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