実践としての学び — 孔子の人となり(その2)
井波 律子 『論語入門』より

Reading Journal 2nd

『論語入門』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 孔子の人となり(その2)

今日のところは「第一章 孔子の人となり」の“その2”である。“その1”では、孔子の人生が表れている話であった。今日のところ“その2”では、孔子の学びについてどのように考えていたかがわかる話が集められている。それでは読み始めよう。

実践としての学び

No.9 

子曰しいわく、十室じゅしつゆうにも、かなら忠信ちゅうしん きゅうごと者有ものあらん。きゅうがくこのむにかざるなり。(公治長第五)(抜粋)
先生は言われた。「戸数十軒の小さな村にも、きっと私と同様、真心をもって誠実な人はいるであろう。しかし、学問を好むという点では、私に及ばないだろう」。(抜粋)

人は誠実であるだけでは不十分で、学問をして知性や感覚を磨かなければならないとう、孔子の言葉である。ここで、著者は、孔子が生涯にわたって学びつづけた自負と誇りが伝わってくる、と評している。

No.10

子曰しいわく、れはまれながらにしてれをものあらず、いにしえこのびんにしてもつれをもとむる者也ものなり。(述而第七)(抜粋)
先生は言われた。「私は生まれながらにして知識をもっているわけではない。古代の事柄を好み、そのなかから敏感に知識や法則を追究しようとする者だ。(抜粋)

著者は、ここで「古を好み」という言葉に注目し、学問の道に進み入る動機として、自発的な興味をあげている、と言っている。そして孔子の学問の姿勢は楽しむことを重視するとともに、敏感にポイントを把握して吸収するというものである。

No.11

孔子曰こうしいわく、まれながらにしてれをものは、上也じょうなりまなんでこれものは、次也つぎなりしみてこれまなぶは、次也つぎなりくるしみてしか]まなばざるは、たみにしてこれす。(季氏第十六)(抜粋)
孔子は言った。「生まれながらにして知識や知恵が備わっているのは、最上の人間である。学んでこれを身につけるのは、その次の人間である。困難を感じつつ、しいて学ぶのは、またその次である。困難を感じると、しいて学ぼうとしない者は、凡民で下等な人間である。(抜粋)

ここでは、学問のランクが書かれている。

  1. 「生まれながらに知る者」:最上位の者、めったにいない天才
  2. 「学んで之を知る者」:孔子は、自分はここのランクであると言っている(No.10参照)
  3. 「困しみて之を学ぶ者」:生活のためなど仕方なく学ぶ者(受験生とか??)
  4. 「困しみて而も学ばざる者」:最も下等な人

孔子は誰でも積極的に学べば、展望がひらけ、変化・成長できると考えていた。

No.12

子曰しいわく、性相せいあちかなりとおなり。(陽貨第十七)(抜粋)
先生は言われた。「人はもともとの素質にはそれほど個人差はない。ただ後天的な習慣・学習によって距離が生じ遠く離れる」。(抜粋)

孔子は、人生のスタートでは、人はほとんど変わらないが、以後の生き方、学習の仕方で変わると考えていた。この孔子の考え方が体系化され、後世における儒家思想の性善説につながる。


ここでいう性善説は、本書の著者井波 律子の『故事成句でたどる楽しい中国史』に書いてあったゾ!(「孟子と性善説」を参照。)(つくジー)

No.13

子曰しいわく、けだらずしてれをつく者有のあらん。れはなりおおものえらびてれにしたがい、おおれをしるすは、るの次也つぎなり(述而第七)(抜粋)
先生は言われた。「世のなかには充分な知識がないのに、創作をする者がいるようだ。私はそんなことはしない。多くのことを聞いて、そのなかからすぐれたものを選んで従い、多くのものを見て、そのなかから選んで記憶する。それは完全な知とはいえないが、それに次ぐやりかただ」。(抜粋)

これについて著者は、

孔子の知識は法則の把握が、多くの見聞をへてそのポイントをつかむこと、すなわち帰納法によることを示す発言である。

と言っている。またNo.10の条と共通しているとしている。

孔子は、すぐれたものを識別するためには、多くの事柄に当たって知的経験を積み習得するしかないと考えていた。このような知的経験重視は、以下にある「学」や「思」にの相互関係の言及につながっている。

No.14

子曰しいわく、まなんでおもわざればすなわくらし。おもうてまなばざればすなわあやうし。(為政第二)(抜粋)
先生は言われた。「書物や先生から学ぶだけで自分で考えないと、混乱するばかりだ。考えるだけで学ばないと、不安定だ」。(抜粋)

学ぶばかりで自分で考えないと、知識が増えるばかりで「くらし」、つまり焦点がぼけて、まとまらない。反対に思索にふけってばかりで学ばないと「あやうし」、つまり独善的になり客観的な捉え方ができずに危うく不安定である。つまりバランスが大事ということである。

著者は、これは現代にも通じる知性論、知識論であると、している。

No.15

子曰しいわく、かつ終日食しゅうじつくらわず、終夜寝しゅうやいねず、っておもう。益無えきなし。まなぶにかざるなり。(衛霊公第十五)(抜粋)
先生は言われた。「私はかつて一日中、ものを食べず、一晩中、一睡もせず、思索しつづけたことがある。しかし、まったく効果はなく、やはり学ぶことにおよばなかった」。(抜粋)

思索に没頭したが何も得ることがなかったという、孔子自身の経験によるものである。前条(NO14)は、この経験を踏まえた発言である。

No.16

子曰しいわく、もくしてれをしるし、まなんでいとわず。ひとおしえてまず。れにいてなにらんや。(述而第七)(抜粋)
先生は言われた。「黙ってしっかり記憶し、嫌気をおこさず学問に励み、飽くことなく人に教える。こんなことは私にとって苦にならない」。(抜粋)

学問の要点を三つにまとめたもの。孔子はこれを苦にならないと言っている。ここでは、「いとわず」、「まず」と持続性の重要性が強調されている。

No.17

子曰しいわく、ゆうんじれをることをおしえんか。れをるをれをるとし、らざるをらずとす。なり。(為政第二)(抜粋)
先生は言われた。「ゆう子路しろ)よ、おまえに知るとはどういうことかを教えようか。わかったことはわかったこととし、わからないことはわかならないとする。これが知ることだ」。(抜粋)

孔子の弟子の子路は、豪快な気質で暴走する傾向にあった。この条は孔子が子路に対して、まずわかったこととわからないことを区別し、整理して考えることが必要と、噛んで含めるように言っている、と著者は指摘している。

孔子の考え方や学び方、教え方の特徴は、このように対象となる事柄を区別・分類して把握し、提示するところにある。

No.18

子曰しいわく、君子くんし食飽しょくあくをもとむることく、居安きょやすきをもとむることし、ことびんにして、げんつつしむ。有道ゆうどうきてただす。がくこのむときのみ。(学而第一)(抜粋)
先生は言われた。「君子は食事について満腹を求めることなく、住まいについて快適を求めない。行動においては、敏捷、発言については慎重であり、さらにまた、道義を体得した人について批判を乞う。そうした人は学びを好むといえよう。(抜粋)

これは君子の行いについて書かれた条である。孔子は、物質的な充足よりも、適正な実践を重視している。

ここで著者は、このような実践につとめる者を「学を好む」者としていることに注目している。つまり孔子の「学」は、単に書斎の学問ではなく、行動や発言のありかたや方法を含むものである。

No.19

子曰しいわく、弟子ていし りてはすなわこうでてはすなわていつつしみてしんひろしゅうあいしてじんしたしみ、おこないて余力有よりょくあらば、すなわちぶんまなべ。(学而第一)(抜粋)
先生は言われた。「若い諸君よ、家の中では父母に孝行を尽くし、家の外では年長者に従い、言動には気をつけて誠実に実行し、広く大勢の人々と交際して、人格者に親しむように、そういうふうに実践して、余力があれば、書物を読みなさい。(抜粋)

これは孔子の若い門弟向けの発言である。孔子は、身近な人間関係の秩序を重んじ、それを基礎にして、言道の慎重さと誠実さなどを説いた。そしてこのような人や社会との関わりにおけるポイントを学びとり、社会貢献をしたうえで、さらに余力があれば、読書するようにと勧めている。これは孔子の学問が「狭義」の学問でなく、実践を重視していることのあらわれである。


関連図書:井波律子(著)『故事成句でたどる楽しい中国史』、岩波書店(岩波ジュニア新書)、2004年

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