すべての出来事に時がある(その1)
小友 聡『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』より

Reading Journal 2nd

『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第3回 すべての出来事に時がある(その1)

今日より第3回である。第2回では、有名な「時の詩」を取り上げ、2つの時、「カイロス」「クロノス」の違いを通して、コヘレトの言葉の意味に迫っている。


「何事にも時がある」という言葉は、コヘレトの「時の詩」に由来している。
ここでは、少し長いが「時の詩」を抜粋する。

天の下では、すべてに時期があり
すべての出来事に時がある。
生れるのに時があり、死ぬに時がある。
植えるに時があり、抜くに時がある。
殺すに時があり、癒すに時がある。
壊すに時があり、建てるに時がある。
泣くに時があり、笑うに時がある。
嘆くに時があり、踊るに時がある。
石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。
抱くに時があり、ほどくに時がある。
求めるに時があり、失うに時がある。
保つに時があり、放つに時がある。
裂くに時があり、縫うに時がある。
黙すに時があり、語るに時がある。
愛するに時があり、憎むに時がある。
戦いに時があり、平和に時がある。(抜粋)

この詩では、有名な「天下のでは、すべてに時期があり すべての出来事に時がある」の後の「生まれるに時があり、死ぬに時がある」から次々と対義語が並べられている。そして、この「時の詩」の後に、

人が労苦したところで、何の益があろうか。
私は、神が人の子らに苦労をさせるよう与えた務めを見た。神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。(3章9-11)(抜粋)

ここでコヘレトは、否定的な言葉を述べたり肯定的な言葉を述べたりしている。コヘレトは何を言っているのだろうか?と著者は問いかける。ここで重要なキーワードは「時」(=「カイロス」)である。この「時」は、ヘブライ語の「エート」であるが、ギリシャ語の「七十人訳聖書」では、「カイロス」と訳されている。ギリシャ語の「カイロス」は時計では計れない「質的な時」である。このカイロスに対して時計で測れる時を「クロノス」といい、聖書にはこの二つの時が出てくる。

一瞬、時間が止まり、突然、神が介入したかのような不思議な「時」。その時が、人生をきめることがあります。一瞬の時が、永遠と化すこともあります。一瞬でありながら永遠でもある。それがカイロスです。(抜粋)

そして、ここでコヘレトが繰り返している「時」は、カイロスのことである。

「時」がカイロスと考えれば、確かに神は「時」=カイロスを麗しく造っている。しかし、「永遠を人の心に与えた」はどういう意味であろうか。これについて著者は、ここの「永遠」はヘブライ語の「オーラーム」であり、この語は「将来」あるいは「過去」の意味を持ち合わせる。つまりここでの「永遠」は未来と過去、すなわち人の一生と考えられると言っている。

コヘレトは、「神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」と言います。カイロスは、いつ、どんな形でやって来るかもわからないということです。なぜなら、カイロスは「神の造られた業」であり隠されたものだからです。

この後、「神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」という言葉について、旧約聖書の「ヨセフの物語」を取り上げ、その言葉の意味を解説している。

ヨセフの物語は、そして「コヘレトの言葉」は、「時」を自分で支配できると思いがちな現代人に、「時」が神の秘儀であることを突きつけているかのようです。(抜粋)

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