『論語入門』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三章 弟子たちとの交わり(その5) — 2 大いなる弟子たち — さまざまな弟子との語らい
今日のところは、「第三章 弟子たちのとの交わり」(その5)である。これまで顔回(その2)、子貢(その3)、子路(その4)と三人の高弟を取り上げてきた。今日のところ“その5”では、その他の弟子たちと孔子との話が集められている。それでは読み始めよう。
さまざまな弟子との語らい
No.95
子夏問いて曰く、巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢と為すとは、何の謂いぞや。子曰く、絵の事は素きを後にす。曰く、礼の後か。子曰く、予れを起こす者は商也。始めて与に詩を言う可きのいみ。(八佾第三)(抜粋)
子夏がたずねた。
「巧笑倩たり にっこり笑うとえくばがくっきり
美目盼たり つぶらな瞳はぱっちり
(素以て絢と為す 色の白さが美しさを際立たせる)」
とはどういう意味ですか」。先生は言われた。「絵というものは、白色を最後に加える、ということだよ」。(子夏は)言った。「礼が仕上げだということですか」。先生は言われた。「私を触発してくれるのは、商(子夏)だな。おまえとこそはじめていっしょに詩の話ができるというものだ」。(抜粋)
子夏は「文学には子遊、子夏」と称されるほど学問に優れていた。(子夏はNo85にも登場している)
ここで子夏が引いた詩句は『詩経』衛風「碩人」のなかにあるが、現存する「碩人」のなかには、「素以て絢と為す」が欠けている。
子夏は三句目の意味が分からず質問したのだが、孔子の答えを聞くと、一気に飛躍して、孔子に重ねて質問する。その鮮やかさに、孔子は手放しに賛辞を与えている。
ここで、「始めて与に詩を言う可きのいみ」という賛辞は他の部分(No.82)にも登場する。
No.96
樊遅 仁を問う。子曰く、人を愛す。知を問う。子曰く、人を知る。樊遅 未だ達せず。子曰く、直きを挙げて諸を枉れるに錯く。能く枉れる者をして直からしむ。樊遅退いて、子夏を見て曰く、郷に吾れ夫子に見えて、知を問う。子曰く、直きを挙げて諸を枉れるに錯く。能く枉れる者をして直からしむと。何の謂ぞや。子夏曰く、富める哉 言や。舜 天下を有ち、衆に選んで皐陶に挙ぐれば、不仁なる者遠ざかる。湯 天下を有ち、伊尹を挙ぐれば、不仁なる者遠ざかる。(顔淵第十二)(抜粋)
樊遅が仁についてたずねた。先生は言われた。「人を愛することだ」。知についてたずねた。「人を知ることだ」。樊遅はよくわからなかった。先生は言われた。「正しい者を抜擢して不正な者の上におけば、不正な者を矯正することができる」。樊遅は退出し、子夏に会って聞いた。「さきほど私は先生にお目にかかって、知についてたずねました。先生は、「正しい者を抜擢して不正な者の上におけば、不正な者を矯正することができる」とおっしゃったが、どういう意味だろうか」。子夏は言った。「なんとゆたかなお言葉だろう。舜が天下を支配したとき、大勢の者のなかから選んで、皐陶を抜擢すると、不正な者は遠ざかった。(殷の)湯王が天下を支配したとき、伊尹を抜擢すると、不正な者は遠ざかった」。(抜粋)
樊遅[はんち]は、No.59でも「知」について質問している。このとき孔子は、「民の義を務め、鬼神を敬して之れを遠ざく。知と謂う可し」と答えている。
ここでまた樊遅は、「知」について聞くが、孔子の答え「人を知ることだ」という意味がよくわからない。そこで孔子はさらに比喩を用いて説明する。(同じ比喩がNo.65にも出てくる)
この条は、孔子が仁や知などについて、あらかじめ定義することなしに、対話の場面や相手によって臨機応変、多様な角度から語ったことを示す。
No.97
柴や愚、参や魯、師や辟、由や喭。(先進十一)(抜粋)
柴(高柴)は愚(愚直)、参(曾参)は魯(魯鈍、ぐず)、師(顓孫師あざなは子張)は辟(誇張、オーバー)、由(子路)は喭(粗野で不作法)だ。(抜粋)
この条は、柴、参、師、由の欠点をあげたものである。これは「子曰く」が脱落したものでおそらく孔子の言葉である(朱子)。
ここに出てくる、曾参はNo53に登場している。
著者は、「孔子ときにユーモアたっぷり、彼らの欠点をこうしてずばり指摘し、彼らの自覚をうながしたものご思われる」と評している。
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