蒙古襲来と他宗批判(その3)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第三章 蒙古襲来と他宗批判(その3)

今日の部分は、第三章のその3。その1その2で日蓮の配流から蒙古の襲来、そしてしだいに激しさを増していく、日蓮の他宗批判までをまとめた。そして今日のところ、その3では、日蓮教団の成立と後に佐渡配流の原因となる裁判について書かれている。


名越(松葉ヶ谷)の草庵に住む日蓮に門人が増えてきた。文永六年(一二六九)に書かれた「法華捨身念願抄」には、大師講(天台宗開祖、忌日に行われた講会)が大盛況であったと書かれていて、そのころ日蓮に賛同する信者も増え、大師講が日蓮教団の中心的な法会となっていたことが分かる。

このころ日蓮の他宗批判は、過激となり鎌倉幕府に、法論を求めていたと考えられる。また文永六年頃には日蓮は裁判に巻き込まれていた(「十章抄」)。

文永六年(一二六九)と八年は旱魃の年であった。六年の旱魃の時に、忍性の祈禱により降雨があった(松尾剛次『忍性』)。そして忍性は祈雨祈禱でも名を上げる。そして、文永八年の旱魃の時も、忍性は祈禱の中心人物とみなされた。
ここで日蓮は、忍性らへの挑発をしている。日蓮は忍性に使者を送り、

「七日のうちに雨が降れば、念仏無間という主張を捨て、良観上人の弟子となって二五〇戒を護持しよう。雨が降らなければ、忍性の持戒(戒律を護持すること)というのは馬鹿げてことであると明らかだ」(抜粋)

と述べた(「頼基陳情」)。そしておそらく雨が降らなかったのだろうと著者は推察している。日蓮はその後、再三にわたり忍性のところに使者を送り、建長寺以下の伽藍を焼き払い、禅僧、律僧、念仏僧などを斬首し由比ヶ浜にかけるならば降雨があり、四海は静謐となると言った(「頼基陳情」)。

こうした批判に対して日蓮を被告とする訴訟が起る。ここから、ここからこの訴訟についての解説がつづく。
まず、日蓮は蒙古襲来の危機に対して「他国侵逼難」の予言が当たったとして、鎌倉幕府に重用されている寺院僧侶らを批判する手紙「十一通の御書」を送っている。それに対して行敏が法論をしようと手紙を送ってきた。

日蓮は、五日後の七月一三日付で「ご不審については、私的な問答を行っても埒があかないでしょう。したがって、あなたから幕府に上奏し、仰せ下された指示に随い是非を糾明すべきでしょう。」と答えている。(抜粋)

ここでこの行敏は、ねん(念阿)良忠の弟子の乗蓮である(高木豊『日蓮』)。そして、忍性は鎌倉の念仏僧も傘下に入れるようになっていたため、行敏も忍性の参加となって働いていた。

この日蓮の返事を受けて行敏は鎌倉幕府に「行敏訴状」を提出する。ここで著者はこの「行敏訴状」がいままであまり研究されることなく、もっぱら日蓮の「行敏訴状御会通」により研究され、忍性の代理人である行敏が日蓮の斬首を求めて訴えたという日蓮側の主張をもとに論じられていたことを問題視している。

ここで著者は、行敏の「行敏訴状」と日蓮の「行敏訴状御会通」により、訴状に書かれていた四つの論点と、それに対する日蓮の反論を以下のようにまとめている。

  1. 問題点:日蓮は『法華経』にみが正法で他のぜん教は、謗法であるとし、念仏宗・禅宗・律宗等の悪口を尽くした点。
    (反論):日蓮だけの自義でなく、道理や経文に照らして明白であり悪口でない。
  2. 問題点:日蓮に同調する信徒が、従来崇敬の弥陀や観音を焼いたり水に流したり、また念仏持戒を毀謗しているという点。
    (反論):門弟がそのようなことをしたと言うなら、確か証人を示すべき、できぬのなら忍性が日蓮門下を陥れるための狂言である。
  3. 問題点:日蓮らは法華守護と称して武器を持ち込み、凶徒をかこっているという点。
    (反論):凶徒とは『かんほん』によれば、邪教をもって民衆を陥れる忍性等である。また、兵仗を蓄えることについては『涅槃経』で許されている。さらに、実際に凶徒の被害にあったのは当方である。
  4. 問題点:近日旱魃に際し諸寺において祈雨を行っていたところ、日蓮は忍性のところへ再三にわたって弟子を遣わし、「諸寺の祈雨は邪法の故に叶わぬ。よって謗法の諸寺を焼き払い、諸僧の頸を斬って由比ヶ浜に懸ければ祈雨も叶い四海も静謐となるであろう」と悪口を吐いたという点。
    (反論):これに対しては、反論をしていない。おそらくこうした非難をした。

このやり取りについて著者は、第一点目と第二点目については日蓮の反論に説得力があるとしている。次に、第三点目から日蓮は法華経守護のために武器を蓄えていたことがわかるとしているが、これは比叡山に僧兵がいたように当時の寺院には武装した僧がいることは普通で、幕府も問題視していないとしている。(ただし、行敏が所属していた律寺では、不殺生戒により武器を蓄えることは禁止されていた。)そして第四点目、つまり「諸寺を焼き払い、諸僧の頸を斬って由比ヶ浜に懸け」の部分が最も重要な悪口の咎の訴因となったとしている。

日蓮は、悪口の咎により佐渡配流が決まり、捕縛に来た役人にも、同様な悪口を言っている(『撰時抄』)。著者は、日蓮は死を恐れず、自説の正しさを確信していた、としている。

ここで、『立正安国論』では、客の「謗法者を殺せというのですか」という問いに、「実際には謗法者に布施を止めることだと」述べていた(ココ参照)が、公安元年(一二七八)にこれを修正した『立正安国論こうほん』では、その部分は「邪見の仏弟子は速やかに重科に処すべき」となっていて、厳しく処罰すべきと考えなおしていた。

ここで著者は、佐渡配流は日蓮の論理では、法難となっているが、実際は侍所の審議を得て幕府側も祈禱を担ってきた忍性らの訴えを認めたとしている。そして、従来この訴訟は形式的なものと考えられていたが、実際には、「行敏訴状」に対して日蓮の反論「陳情」のやり取りもされていて、きちんとした手続きを踏んでいるとしている。

最後に訴えた側の忍性について書かれている。
忍性は、翌文永九年(一二七二)に一〇の誓願を書いていて、そのうちの第八願は、

われに怨害をなし、毀謗を致す人にも、善友の思いをなし、さいの方便とすること(抜粋)

となっている。これに注目して著者は、忍性は日蓮を善友として救済しようと考えていて、佐渡の配流も早期に許されることを望んでいたと考えられるとしている。


関連図書:
松尾剛次(著)『持戒の聖者 叡尊・忍性』、吉川弘文館(日本の名僧 10)、2004年
高木豊(著)『日蓮とその門弟―宗教社会史的研究』、弘文堂、1965年

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