『故事成句でたどる楽しい中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二章 「呉越同舟」 — 乱世の生きざま 4 西方の大国・秦(前半)
今日から、「第二章 呉越同舟」の最終節「4 西方の大国・秦」に入る。このころ、秦が、しだいに国家体制を整備して勢力を増し天下統一へと向かう。
第4節は、前半、後半に分けてまとめるとし、今日のところ”前半“は秦の強国化と、強国秦と他の六国の間で活躍する遊説家、さらに老子、荘子の思想についてである。それでは読み始めよう。
「道に拾遺せず」商鞅
西方の大国・秦は春秋時代に五覇に準ずる穆公などが出ているが、本格的に国家体制を整備して勢いを増したのは、孝公の時代である。彼は商鞅と共に中央集権型の国家に秦を改造した。
商鞅は、中央集権型の国家にするため厳格な法や制度を整えた。そのため、秦の人々は、法に触れることを恐れ「道に拾遺せず(道に落ちているものを拾わない)」というほどの、粛然とした社会情勢となる。
ここで著者は、孔子が魯の国政を司ったときにも「道に拾遺せず」という状態になったが、その意味と人々の意識には大いなる違いがあると指摘している。
魏に恨みがあった商鞅は、魏を攻めて大勝利をおさめ、商・於の地を賜り、商君と呼ばれるようになった。
しかし孝公が死去し、息子の恵文王が即位すると、恵文王には、皇太子時代の恨みがあり、商鞅を反乱のかどで逮捕しようとした。
商鞅は逃亡して国境の宿屋に駆け込みますが、皮肉にも宿屋の主人に「商君の法律で、旅行証のない客を泊めると罰せられます」と断られます。(抜粋)
結局、商鞅は領地の手勢を率いて挙兵するが、たちまち撃破されて、殺害された。啓文王はその死骸を車裂きにして積年の恨みを晴らした。
このように商鞅は非業の死を遂げるが、彼が行った法律万能主義と中央集権体制は、後の始皇帝の天下統一の最大の武器となった。
「吾が舌を視よ、尚を在りやないや」蘇秦と張儀
孝公時代に共に商鞅の力もあり秦は強力になった。そして残る六国への圧力を強めた。このような時に活躍したのは弁論術にたけた遊説家であった。
六国が同盟を結んで秦に対抗すべき(「合従」)とする蘇秦と、六国がそれぞれ個別に秦と同盟することにより自国の存在を図る(「連衡」)べきであるとする張儀が代表的存在である。
蘇秦は、六国を行脚して、六国が手を結んで秦に対抗すべきと説き、合従同盟を実現しそのリーダーとして六国の宰相を兼ねる身となった。この蘇秦の活躍は『史記』の「蘇秦列伝」に詳しく書かれている。蘇秦の言葉としては、「寧ろ鶏口と為るも牛後と為る無かれ(小集団のリーダーとなる方が大集団のどん尻になるよりましだ)」がある。しかし、この合従同盟は、ライバルの張儀によって切り崩されてしまう。
張儀も諸国を回る遊説家だった。張儀は楚の宰相のもとに遊説に行ったとき、たまたま璧が無くなり、流れ者だった張儀が疑われ打ちのめされた。そして傷だらけで家に帰った時、妻に「吾が舌を視よ、尚を在りやないや(私の舌がまだあるかどうか、見てくれ)」と言った。そして「まだありますよ」と妻が言うと「足れり(それなら十分だ)」と言った、という逸話がある。
連衡論を振りかざし秦に仕えた張儀は、六国合従同盟の切り崩しにかかった。そして、秦に有利な連衡策を成功させる。しかし、彼を重用した啓文王が亡くなり、かねてから不仲だった皇太子の武王が即位すると、居場所がなくなる。危険を察した張儀は、出身地の魏に戻る。そして翌年病死した。
「美人香草」の文学、屈原
この時代に楚に大詩人・屈原出が出現した。屈原は楚の懐王に仕えていたが、潔癖で非妥協的な性格が災いして誹謗・中傷され疎じられるようになった。その後、頃襄王の時代になると立場はさらに悪くなり、流刑となった。屈原は長期にわたって放浪生活つづけ、絶望の果てに汨羅の淵で身を投げてしまう。
屈原の作品集『楚辞』 には、多様な作品が収められていて、どれが屈原の自作なのか諸説ある。屈原の伝記と符合する長編詩「離騒」は、左遷・流刑の憂き目にあった作者が憤慨し、みずからの無実を天帝に訴えるべく昇天し、天上世界を遍歴するという内容である。ここで屈原は、君主を「美人」に自分自身を「香草」にたとえている。そのため「離騒]は、「美人香草の文学」とも呼ばれている。
「無為自然」、老荘の思想
この屈原より少し前に道家思想の祖の一人、「荘子」がいる。彼には、楚の威王から宰相になってほしいと頼まれた時「肥え太らされて祭りの犠牲になる牛よりも、泥まみれになって自由に遊び戯れているほうがましだ」と断ったという逸話がある。
道家思想は老荘思想とも言われ、荘子より先輩の老子は春秋時代中頃に図書館に勤める役人であった。東周がおとろえたため『老子(道徳教)』五千言を残して、いつこともなく立ち去ったとされる。しかし、現存の『老子』は、多くの人が手を加えて長い時間をかけて完成したとされる。
老子の哲学は、世の人のために有意義な行動(有為)を重視する儒家思想と異なり、万物の根源である「道」をするために、人はあくせくせず、ゆったりと「無為(なにもせず)」「自然(あるがまま)」の境地に身を委ねることが大切であると説く。
この「無為自然」は、道家・老荘思想のキーワードである。
この「無為自然」は、両者の間で差異があり、老子の場合は文字通り「何もしないこと」であるが、荘子の場合は「内面的な絶対自由の世界で無心に遊び戯れること」を意味する。また、荘子には「胡蝶の夢」という有名な文章がある。
孔子および孟子・荀子などの儒家、墨子を祖とする墨家、商鞅・韓非子などの法家、蘇秦・張儀などの従横家、老子・荘子などの道家等々。春秋戦国時代はまさに百家争鳴、中国思想の黄金時代と言ってよいでしょう。(抜粋)
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