100分de 名著 『教行信証』 釈 徹宗 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第2回 「自分の都合」と向き合う(後半)
今日のところは第2回「「自分の都合」と向き合う」の”後半“である。第2回は、『教行信証』の行巻を読み解いているが、”前半“では、念仏の歴史に触れたのち、親鸞が称名念仏の基礎としたのは、『無量寿経』に書かれている法蔵菩薩(阿弥陀菩薩)が誓った十八の誓願の中の第十七願であること、そして、親鸞が「南無阿弥陀仏」の六文字の解釈 — 「六字釈」について書かれていた。今日のところ”後半“ではそれに続き、「三選の文」「正信偈」さらに「知恩報徳」について説明があり、さらにこれらの教えが現代にどう生きるのかという著者の考えが示される。それでは読み始めよう。それでは読み始めよう。
三選の文:「行巻」
行巻のもう一つのポイントは『三撰の文』である。ここは、『教行信証』で、唯一法然の『選択集』から引用がある。『教行信証』は、法然の『選択集』の正統性を証明することが目的であるため、本来なら法然の言説を引用しても証明の役に立たない。しかし、この部分には、『選択集』の題号と「三選の文」が取り上げられている。
それは、浄土往生の真実の行を選ぶための三つの選択である。
- 仏道を「聖道門」と「浄土門」に分け ⇒ 「浄土門」
- 浄土門を「正行」と「雑行」に分け ⇒ 「正道」
- 正道を「正定行」と「助行」に分け ⇒ 「正定行」
ここで「聖道門」とは、修行により悟りを目指すこと、「浄土門」とは、阿弥陀仏の他力によって往生・成仏を目指す道である。
そして、「正行」とは、善導による五正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五つ)である。そして、「雑行」とは五正行以外の行業・実践のことである。
そして③番目は、五正行のうちどれをとるかであるが、法然は称名こそが重要な行(正定行)であり、そのたの行は「助行」であるとしている。
この「三撰の文」であるが、どっかで見たぞ?と思って調べてみると、『日本仏教再入門』にあった。法然の部分に「三重の選択」として載っている(ココ参照)。ちょっと名前が違ってるけど同じもんだよね。(つくジー)
正信偈:「行巻」
行巻の終わりには「正信偈(正信念仏偈)」と題された漢詩がまとめられている。この正信偈を丁寧に解釈すれば『教行信証』の大半を理解したと言ってもよいほど、大切な部分である。ここでは、特徴的な句を二つ選んで解説される。
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無たてまつる。
(限りない命の如来に帰命し、思いはかることができない光の如来に帰依したてまつる。)(抜粋)
これが、冒頭の句である。ここで、南無は帰依・帰命の意であり、阿弥陀仏は無量寿(限りない生命)と無量光(限りない光)のはたらきをするので、これは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と同じである。
弥陀仏の本願念仏は、邪見・憍慢の悪衆生、
信楽受持すること、はなはだもって難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。
(阿弥陀仏の法は、よこしまな考えを持ち、おごり高ぶる自力のものが、
信じることは実に難しい。難の中の難であり、これ以上に難しいことはない。)(抜粋)
ここで「邪見・憍慢の悪衆生」は、親鸞を含む人々のことである。そして誰もが救われる教えであるにもかかわらず、これほど困難なことはない、ということが述べられている。
親鸞は、称名念仏を「易行」であるが、「難信(信じることは難しい)」と捉えていたのである。
「知恩報徳」:「行巻」
「行巻」の正信偈の前に「知恩報徳」ということが述べられている。この知恩報徳は、日本仏教界で大切にされてきた教えで、ここで親鸞は『教行信証』は、仏や先人からの恩・徳を受けとめ、それに報いるために書いたと言っている。
ここでは、インドの論家、中国、日本の高僧である龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空(法然)の七人をあげ、その高僧がどのような教えを説いたか述べている。
ここでは、この中で重要な天親と曇鸞について、どのように書かれているかを紹介している。
『無量寿経』では、第十八願にでてくる「至心」「信楽」「欲生」の三心が浄土に往来するために必要であるとされているが、天親は『浄土論』の中で「私は一心に阿弥陀仏に帰命して浄土往生を願います」と表明した。親鸞も、この天親の思想を引き継いでいる。つまり「三心は真楽の一心に集約できる」とした。曇鸞は、天親の『浄土論』を詳細に解釈した中国の高僧で、「往相回向」も「還相回向」も他力によるもので、浄土に往生するために必要なのは他力の信心一つであると説いた。この天親と曇鸞は親鸞が特にリスペクトした高僧で、親鸞の名は二人の文字を一つずつもらったものであるとされている。
この知恩報徳を書くことにより、親鸞は浄土仏教がもともと仏教の中に存在し、釈尊から繋がっている教えであることを示している。
自分の自我の濃度を薄める
第②回の最後に、著者は、このような教えが現代にどのような意味を持つのか、著者の考えを示している。
法然や親鸞の時代に比べ現代ははるかに良い時代である。しかし、苦難の人生を生き抜き、死に切るという観点から見れば、さほど変わっていない。だからこそ、二千六百年前の釈尊の教えが現代人を救っているのである。
現代人の生きづらさの原因は、個別の問題、社会問題、心の問題や身体の問題があるが、ここでは、「自分というもの」という問題、つまり現代人の自我の問題を考える。私たちは、自己決定を求められ、自己主張をしなければならない世界に生きている。それと同時に中間共同体(地域や職場のコミュニティ)はやせ細っている。このような状態で、孤独になり、なかなか生きづらい世の中である。
そのような状態にあって、仏教は今を生きる知恵となる。まず、自分のはからいを捨て、仏教が説く受容原理に身を任せてみる。自分自身を見つめたり、考えたり、先人からのパスに目を凝らす。
すると、いかに自分の都合を振り回して日々を過ごしているかが見えてきます。でもそんな存在だからこそ、受動原理に基づいた仏の教えが頼りになるのです。(抜粋)
精神分析家・マイケル・バリントの提唱した「基底欠損(ベーシック・フォルト)」によると、人間は心の基盤(信頼感に基礎づけられた状態)が欠損すると、とても生きづらくなる。そのため、私たちはどこかで受容されることが必要である。
浄土仏教が受容原理によって成り立っているのも、このような人間のあり様と関係しているのでしょう。(抜粋)
また、自我を薄めていった先に真の救いや幸福があるという考え方は、アジアの伝統思想としてある。古典芸能や武術の世界では、「自分というものの濃度」が薄いときこそ最高のパフォーマンスができるとされている。
関連図書:親鸞(著)『教行信証』、岩波書店(岩波文庫〉、1957年

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