『ファンタジーに秘められた宗教』 中村 圭志 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第⑥回 『火の鳥』『風の谷のナウシカ』 現代日本の死生観(その2)
今日のところは、「第⑥回 『火の鳥』『風の谷のナウシカ』 現代日本の死生観」の”その2“である。”その1“では、手塚治虫の『火の鳥』であったが、”その2“では、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』をまとめる。『風の谷のナウシカ』では、手塚の示した生命論と文明批判がより具体的形で発展している。そして、新海誠などのより若い世界では、さらにその問題意識が広がっている。それでは、読み始めよう。
宮崎駿とその作品の特徴
宮崎駿は、『風の谷のナウシカ』や『千と千尋の神隠し』『君たちはどう生きるか』などの大ヒット作で有名なアニメーターである。
彼の一族は、戦闘機の部品を作る工場の経営で裕福に暮らした。このことは、彼がエンジニアの職人仕事への愛着につながるが、その反面、戦争に対する強い批判にもつながっている。
そして、宮崎作品の特徴として、職人仕事への愛着と戦争への強い批判のほかに、
分け隔てせず注意深く「ケア」することの大事さを描いていることです。(抜粋)
がある。
おそらく監督は、世界を混乱や破滅から救うのは、日常レベルの努力、そして他者への愛情あるまなざしであると訴えたいのでしょう。ここには宮崎個人の気質や体験と、カウンターカルチャーなどの影響も認められますが、日常の中に聖性を見出す日本宗教の特質を受け継ぐものであります。(抜粋)
描かれる内容の精神性の高さは、現実的でていねいな描写に現れ、物事や人の振舞、社会の仕組みまで丁寧に描くことで、完全に架空の設定の世界に、リアリティーを持ち込んでいる。これは、日本アニメがファンタジーでも細部がリアルであるという流れを作ったことは間違いない。
漫画版及び劇場版『風の谷のナウシカ』
ここでは、劇場版に言及した後。漫画版『風の谷のナウシカ』に沿って、その世界観、宗教観を考察している。
劇場版『風の谷のナウシカ』
漫画版『風の谷のナウシカ』は一九八二年に連載が始まった。そして、一九八四年に連載途中の内容から作られた劇場版『風の谷のナウシカ』が公開された。
舞台は、最終戦争後に文明が滅んだあとの地球である。汚染された腐海と呼ばれる森が人類の生存を脅かしている。そして小部族国家の風の谷では、自然と調和した生活を続けていた。そこに大国トルメキアとの戦争が始まる。トルメキアは王蟲の大群を暴走させることにより、敵を粉砕しようとした。その時、腐海が大地の浄化の役割を担うと気づいた風の谷の部族の娘ナウシカは、人間の生活圏と生態系の危機を防止するため、王蟲の前に立ちはだかり、暴走を止める。しかしナウシカは死んだように見える。しかし王蟲がナウシカを蘇生し、人々はナウシカを予言されていた救世主であると考える。
この劇場版の『ナウシカ』には、生態系の均衡、戦争批判など『ゲド戦記』の影響がみられる。また、ナウシカが自然神・王蟲に謝罪し、許され、復活するあたりは、イエス・キリストの贖罪と復活のパターンと重なる。
この劇的な死と復活はオリジナルの漫画にはなく、劇場版らしいストーリー展開である。
漫画版『風の谷のナウシカ』
そして、この劇場版『風の谷のナウシカ』の後、さらに10年を費やしてついに漫画版の『風の谷のナウシカ』が完成する。そして、戦争の結末は、アニメ版とはまるで違うものである。アニメ版では、トルメキア(敵)と風の谷(味方)、自然と人間の二項構造であったが、漫画版では、複雑化し攪乱され世界の複雑さを強調するものとなっている。
そして、著者は漫画版のメッセージを、次のように要約している。
本質的なメッセージはアニメ版と大きく異なるわけではありませんが、それは、強いて要約するならば、物事に対する注意深い観察と人々に対する愛情あるケアが何よりも大事だというメッセージです。(抜粋)
しばしば、人は、複雑な利害関係のある人々を敵と味方に二分して、敵を打ち負かすために努力を重ねるが、ナウシカは、敵味方の関係なく人々と接触し、人間界と自然界の均衡を保つために努力を重ねる。要するに、あっちこっちに行ってケアして回るのである。このような姿勢は第1回の『星の王子さま』(”その1”、”その2”)のキツネの教えに近い(ココ参照)。時間をかけた飼い馴らしによる絆の養成である。
そして最後に、ナウシカは「墓所」と呼ばれる要塞にたどり着き、太古の英知と技術の結晶である知生体と対決する。知生体は、「闇」を棄て「光」である生命側に与するように求める。しかし、ナウシカは「いのちは闇の中のまたたく光だ」と言って二項対立に立つプログラムを拒否し、要塞を破壊する。そしてナウシカは、風の谷戻らず、民衆を世話するために生きる。
『風の谷のナウシカ』は、手塚以来の生命論と文明批判への答えをいっそう具体的に結実させたと言えるでしょう。それによれば、生はそもそも闘争や病など汚辱 – 闇 – にまみれたものです。技術の介入によって生を一方的に浄化し、都合よく管理しよう --- 光のみにしょう --- というのは、生の本質の否定なのです。(抜粋)
ナウシカは、「清浄と汚辱こそ生命だ」とし、闇に飛び込んで人々をケアすることに正しい方向を見出だしている。
これを宗教的に観ると、教理を巡る議論よりも日常的な気づきや癒しに力点の置く修行的伝統に近いものである。また、ナウシカの宗教観は日本の神道や民衆宗教に内在するアミニズムに近いものである。
いずれにせよ、手塚が立ち上げた生命論と文明批判が、宮崎を経由することで一層具体的な実践へと落とし込まれた、「日常の聖性」という視点を獲得したことは大いに注目されるところです。(抜粋)
関連図書:宮崎駿 (著)『風の谷のナウシカ』全7巻、徳間書店(アニメージュコミックス)、1983-1995年


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