『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二部 — 関羽の部将
今日のところは「関羽の部将」である。ここでは、『三国志演義』で羅漢中が最も力を込めたキャラクターである関羽の二人の部将周倉と廖化について、虚構と現実を考察し羅漢中の狙いを探っている。それは読み始めよう。
『三国志演義』に描かれる関羽
関羽は『三国志演義』の著者羅漢中がもっとも力をこめて描いたキャラクターである。そのため『三国志演義』には
- 関羽が董卓の猛将華雄と戦い、あっという間にその首を切り取ったシーン(第五回)
- 関羽が曹操に条件付きで降伏した時、その恩返しを済ませてると、曹操側の五関の守将を血祭りにあげ劉備の下へ帰るシーン(第二十七回)
- 「赤壁の戦い」に敗北し、敗走している曹操一行を、見るに見かねて見逃すシーン(第五十回)
など、関羽の魅力を浮き彫りにするシーンだが、これらは正史『三国志』はもとより、民間芸能の分野で伝承されてきた「三国志物語」にもなく、『三国志演義』独自の構想である。
ここで謎が解けた。ここに書かれている曹操一行を見逃すシーンは、『三国志演義』での名場面中の名場面なのだが、ここまでこの本ではふれられていない。なんでだろうと思っていたのですが…‥史実じゃないんですね♬ (つくジー)
関羽の部将、周倉と廖化
このように、関羽をめぐって、あるいは正史を極端に膨らませ、あるいは縦横無尽に虚構の操作をほどこす『演義』の著者は、関羽を支える腹心の部将についても、大胆かつ周到に配慮しながら、そのキャラクターを造形している。(抜粋)
それが周倉と廖化である。
彼らはどちらも「黄巾の乱」の残党で山賊であったが関羽と出会い、配下となって尽くしたいと懇願した。しかし廖化は、許されず周倉のみが同行する。
虚構の人物・周倉
この周倉は正史『三国志』に見えない架空の人物である。『演義』では、関羽に影のように付き添い守り続ける存在として描かれている。荊州に残留していた関羽が、呉との関係が悪化し、魯粛と会談する場面では、周倉は絶体絶命の危機を乗り越える手はずを整える重要な役割を演じている(第六十六回「単刀会」場面)。さらに、関羽が魏と呉の挟み撃ちにあい非業の最期をとげると、周倉も関羽軍の最期の拠点麦城で自刎する。
このように『演義』世界で関羽一筋だった周倉は、後世の関羽廟でもその側にまつられるようになる。
こうして時の経過とともに、周倉は実在の人物以上に存在感のあるキャラクターとなってゆくのである。(抜粋)
周倉は『演義』が生んだ虚構の人物であるが、正史『三国志』の呉書「魯粛伝」にそのモデルとなったであろう人物の記載がある。関羽と魯粛の会談の際、その無名の人物の言動が『演義』の周倉のものと同じである。周倉は正史の記述をもとに、虚構を膨らませていった人物と考えられる。
実在した廖化
もう一人の部将である廖化は、『演義』の世界では関羽と出会ってから十一年後に投降し、関羽の部将となったとされる(第六十回)。関羽が挟み撃ちになった時、廖化は敵の囲みを破って脱出し、劉備に救援を求めたが、時すでに遅く関羽は殺されてしまった。以後、廖化は蜀軍の中堅的部将となり、北伐に参加、諸葛亮の死後も活躍し、蜀が滅亡すると病気を理由に洛陽への移住を拒否し、煩悶のうちに亡くなった。
しかし、「こうなると実は妙なことになる」と著者は指摘している。蜀の滅亡まで廖化が現役であるとすると、八十半ばから九十前半まで戦場を駆け巡っていたことになる。
実は、廖化は周倉とは異なり、実在の人物であり、『三国志』蜀書に伝記もある。(抜粋)
伝記には、廖化が山賊時代に関羽にあったなど、もちろん書かれていない。『演義』の著者が、廖化というキャラクターを思い切って含まらせたため、不思議な年齢の誤差が起こったのである。
陰の主役関羽を引き立たせるために、『演義』の著者がいかに正史をベースに苦心惨澹したか、その片鱗が、周倉や廖化のような配下の部将の描き方にも如実に表れており、まことに興味深いというほかない。(抜粋)
初出掲載誌:(「中国の歴史」4の月報、二〇〇五年一月、講談社)


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