ポピュリストが語ること(その3)
ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』より

Reading Journal 2nd

『ポピュリズムとは何か』ヤン=ヴェルナー・ミュラー 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 ポピュリストが語ること(その3)

今日のところは、「第1章 ポピュリストが語ること」の“その3”である。“その1”および“その2”において、ポピュリズムの定義は不明確で一般的なアプローチでは、袋小路に迷い込んでしまうことが、解説された。それを受けて“その3”では、著者によるポピュリズムの定義が提示される。さて読み始めよう。

ポピュリズムのロジック

ポピュリズム概念の提示

このようにポピュリズムの概念は、一般的なアプローチでは袋小路に入ってしまう。

そこで著者は、ポピュリズム概念について次のように提示している。

ポピュリズムとは、ある特定の政治の道徳主義的な想像 (moralistic imagination of politics) であり、道徳的に純粋で完全に統一された人民 --- しかしわたしはそれを究極的には擬制的フィクショナルなものと論じるが --- と、腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされるエリートとを対置するように政治世界を認識する方法である、とわたしは提示したい。(抜粋)

ポピュリストの認定には、「エリート批判」に加えて「反多元主義者」であることが必要である。

ポピュリストは、自分たちだけが人民を代表すると主張し、政権を握っていないときは、他の政治的競争相手は非道徳的で腐敗したエリートであると言い、政権を取るといかなる正統な反対も認めようとしない。

ポピュリストの核心的主張は、ポピュリスト正統を実際に指示しない者はだれであれ、最初から人民にふさわしい一員でないということを含意する。(抜粋)

ポピュリズムと反多元主義

ポピュリズムは、代表制民主主義の導入とともに出現する。前者は後者の陰である。(抜粋)

ポピュリストは、「政体はもはや分裂すべきではなく、人民はひとつであることが可能であり、そしてひとつの真の代表をもつことができる」という理念を持っている。それゆえ、ポピュリズムの核心的な主張は、反多元主義の道徳化された一形態である。

ポピュリズムは道徳的な意味で理解された全体に代わりうる一部分という論拠と、排他的な代表への要求を必要とする。

ポピュリズムと呼ぶには、人民の一部が人民そのものであるという主張が必要である

ポピュリストの政治的道徳観念

ポピュリスト自身はしばしば仕事(work)と腐敗(corruption)という言葉で政治的道徳を把握する。(抜粋)

ポピュリストは、純粋で勤勉な人民を腐敗したエリートと対置させる。さらに、右翼ポピュリストにおいては、エリート以外に社会の最底辺層とも対置される。

アメリカ史において、アンドリュー・ジャクソンの支持者は、貴族(エリート)ともにネイティブ・アメリカン及び奴隷(最底辺層)とも対置した。

概して右翼ポピュリストは、人民と人民の一員でないエリート、そしてやはり人民と区別されるマージナルな集団と対置される。そして二〇世紀のアメリカでは、前者はリベラルなエリート、そして後者は人種的マイノリティーである。

ここで著者はその例として、「バルク・オバマの出生証明書をめぐる論争」をあげ説明している。

ポピュリストは道徳的な者と非道徳的な者、純粋な者と腐敗したもの、・・・中略・・・これらを区別する基準を用いて、政治の道徳主義的な概念化を進めている。しかしその区別(の基準)は、仕事(work)とその反対物(腐敗や怠惰)である必要はない。「仕事」(という基準)が確定しがたいことがわかった場合、エスニックな指標が直ちに援用されるだろう。(抜粋)

しかし、ポピュリズムがつねにナショナリズムや民族の基づく排外主義の形態をとるわけではない。ポピュリストが道徳と非道徳を区別する手法は様々であるが常に道徳的純粋な人民とその敵の何らかの区別が必要である。

この崇高な人民という想定は、ポピュリストと他の反多元主義的な政治的アクターと区別する。たとえばレーニン主義では、人民を道徳的に純粋なものとは考えない。その意味でポピュリズムではない。

多元主義を拒否する者がみなポピュリストという訳でなないのである。(抜粋)

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