五〇年後のあとがき
エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』 より

Reading Journal 2nd

エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

五〇年後のあとがき‐その間に私が体験したこと、学んだこと

今日のところは「五〇年後のあとがき」である。初回の「昔、むかし」のところに書いたように、帯に抜き出してある訳者、中山典夫の[訳者あとがき] の一文を読んだからである。

この「歴史」を今日あらゆる批判に耐えうるものとしているのは、著者による長い「50年後のあとがき」です。・・・・後略・・・・。(抜粋)

さて、読み始めよう。

25歳のゴンブリッチがこの本を書いたとき、彼は読者に「きみ」と語りかけた。しかし、語り手は、読者を知らないし、読者は、語り手が誰かを知らなかった。知る必要もなかった。しかし、その50年後に、このあとがきを書く著者は、別の考えに襲われているという。

すはわち、この本を書いたのが二五歳の私であり、そしてこの「あとがき」を書くのが、それから五〇年後の私、―――いくらか太くなった私であることが、もんだいではないことではないと思えてきたのです。(抜粋)

ここの部分、最後が二重否定になっていて、わかりづらい。おそらく、この本は世界史の本なので「誰」が書いても、内容は同じである(はず)。つまり著者が誰でどんな人かを、読者は知らなくてもよい、というのが二五歳のゴンブリッチである。しかし、その後、第二次世界大戦を異国(イギリス)で過ごしたユダヤ人でもある著者は、もはや、その歴史を自分というものを通さずに語ることができない、ということではないかと思う。この章の副題が「その間に私が体験したこと、学んだこと」となっているのもそのことを語っていると思った。(つくジー)


この本は、第一次世界大戦が終わった一九一八年で閉じていた。著者は、九歳の時である。そのころ、テレビや宇宙旅行、コンピュータや原子力も存在していなかった。

それから五〇年に大きな変化があった。一番大きいのは世界の人口が二倍になった。
そして、歴史書の中で大きな役割を演じる征服・革命が払う、何十万という犠牲についても、世界は大きく変わっている。少し前までは、どこかで「世界を揺るがす」出来事があっても、少し離れたところに住んでいる人には、何も伝わらなかった。しかし、第一次世界大戦ごろには、事情が変わり多くの民族や国家が関わるようになり「世界大戦」が勃発した。

残念ながら私は、さらに規模を広げた第二次世界大戦、それになお多くの犠牲を生んだ、そして生みつつある、他の多くの戦争を体験しなければなりませんでした。(抜粋)

そして、著者は、この五〇年の間に大きく変わったと言っている。著者は、この本をウィーンで出版し、そして間もなくロンドンに渡った。それから結局オーストリアでより多くの時間をイギリスで過ごすことになる。それにより、著者は、「まったく別物」に変えられてしまった。

著者は、この本を再版するにあたって、この五〇年に加えられた研究者たちの成果により分かった誤りを訂正するにとどめ、枠組みは変えないことにした。しかし困ったことは、今の自分の考えと全く違う箇所があり、そこを訂正するとその章が台無しになることである。そういう箇所は、その考えの変化を、この「あとがき」に取っておくことにした、としている。

ひとつの間違えは、「世界の分配」の章で、ウィルソン大統領が、ドイツ、オーストリア及びその同盟国との約束を守らなかったと書いたことである。実際には、ウィルソンは確かに講和を提案したが、ドイツ、オーストリアはまだ自分たちの勝利を確信していて、その講和を無視した。そしてその後に敗北を悟った時、初めてその提案を引き合いに出したことである。

この私の間違いが、いかに本質的で残念だったかは、次のことがらで容易に示してくれます。すやわち、当時の私にはまったく想像もできなかったのですが、敗れた国の民衆の間では自分たちがペテンにかけられたがゆえに悲惨な苦境に落とされたのだという、確信が、はびこっていたのです。(抜粋)

ここも難しいのだが、ここの部分は、著者を含めて当時の人々は、歴史に反して、ペテンにかけられたと思っていたということだと思う。(つくジー)


自分たちは、ペテンにかけられたから負けたという欺瞞は、野心的な扇動者・アドルフ・ヒトラーにより、怒りと復讐心に変えられた。ヒトラー自身も、この欺瞞がなければドイツ軍は決して負けることがなかったと考え、信じきっていた。彼は、敵のプロパガンダにより、負けたと考え、プロパガンダで勝つことが大切だという信条に達する。

とりわけ彼は、人びとをそそのかすには、彼らの前に彼らの苦しみの原因である「しょくざいの山羊」を引き出すことが、もっとも効果的であることを知っていました。そして、彼は、この「贖罪の山羊」をユダヤ人に見出したのです。(抜粋)

著者は、この本の中で何度もユダヤ人の運命を語ってきたが、このような恐ろしいことが、ユダヤ人家庭に生まれたにもかかわらず自分の時代に繰り返されるとは夢にも思っていなかったと語っている。


ここで著者がユダヤ人であることを知って、ちょっと驚いた。「唯一の神」の章の最後の部分が、ユダヤの民についてネガティブに書いてあったので「その当時は、ゴンブリッチのような最高に教養のあるヨーロッパ人でもこのような認識だったのだと思った」という感想を持っていたからである。よ・・読み間違えたのかな?(つくジー)


次に決して私の不名誉とならないもう一つの誤りとして、「ほんとうの新しい時代」に書かれた啓蒙主義の理念としている。著者は、一八世紀に啓蒙主義が一般化したと書いた。そして、

そう書いた時私は、ふたたび人間が、考えを異にする者を迫害する、拷問で自白を迫る、あるいは基本的な人権すらも否定するまでにらくできるとは、考えもしませんでした。(抜粋)

しかし、そのような歴史の逆行が起こってしまった。著者自身もウィーン大学でユダヤ人の学生が、ヒトラーの支持者に襲われるのを目撃していると語っている。そして、著者は運よくイギリスに招かれる。その直後の一九三八年三月にドイツはオーストリアに侵攻している。すぐにオーストリアでも、「おはよう」の挨拶の代わりに「ハイル・ヒトラー」と言わない者は危険にさらされる状況になった。

このような状況のなかですぐに、その種の動きの支持者にとってはただひとつの悪とただひとつの善しか存在しえないことが明らかになりました。すなわち、彼らのいわゆる指導者に逆らうことの悪と絶対服従という善です。(抜粋)

たしかに、本書のなかでも、ムハンマドの初期の支持者(ココ参照)、イエズス会士(ココ参照)、ロシアでの共産主義の勝利(ココ参照)といったところで似たようなことがあった。
そして、第一次世界大戦後のドイツ、イタリア、そして日本で寛容ということが生活から消えていった。政治家は、「世界の分配」に際して自分たちは当然の権利を奪われた、そして、自分たちはほんらい、他の民族を支配することができる優秀は民族であると訴えた。


このあたりを読むと、この「五〇年後のあとがき」からすでに、また四〇年余りたっているんだけど、状況は、あまり変わってないような気がする。冷戦時代が終わって少し改善したんだが、・・・またより戻しがきてますよね。(つくジー)


そして、経済危機のドイツ国内では、あのヴェルサイユ及びサン・ジェルマンでの条約を無きものにすることができる戦争が、最も簡単な解決方法だと思えてきた。そして一九三九年にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまった。

著者は、この戦争の六年間を、ドイツのラジオ放送の傍受に携わり、戦争を両側から体験したと語っている。

戦争は、はじめの二年間はドイツの進撃が進んだ。そして、一九四一年には、日本が参戦する。しかし、一九四二年にドイツ軍は北アフリカで押し戻され、一九四三年にレニングラード近くでロシア軍に撃破された。そして一九四四年の夏に連合軍はノルマンディーに上陸する。そして一九四四年に、連合軍はベルリンに迫りヒトラーを自殺に追い込んだ。

今回は、もはや講和条約は問題になりませんでした。勝者によるドイツの占領はつづき、ただ解放されたオーストリアは、一九五五年にその占領状態から抜け出すことができました。戦争が終わって四〇年がたった今日なお、ドイツをつらぬいて、共産主義のロシアの影響範囲と西側の民主主義の範囲を分かつ、きびしく見張られた境界線が引かれています。これが、六年にわたりばくだいな犠牲者を出したおぞましい戦争の結果です。(抜粋)

ここで著者は、この半世紀でなされた最大の悪行について、出来れば黙していたい。としながら、ドイツによるユダヤ人の大量虐殺について語っている。それは、一九四五年の終戦時には、著者を含めて大半の人が、信じることができなかった。

さらに、原子爆弾の発明のため、次の世界大戦が世界史の最後になると語っている。
一九四五年に日本の都市、広島と長崎に原子爆弾が投下されて時、世界史には全く新しいページを開いた。それは、これを再び人間に対して使うことを不可能にしたからである。

最後に、もう一つ、ずっと気になっていた欠点を埋め合わせるとしている。機械と人間の章(ココ参照)では、工場の機械が手仕事にとって代わり貧しさをもたらした」と書いた。それは事実だが、増え続ける人口を衣食住でまがいなりにも支えた大量生産は、新しい技術がなければ不可能であったことに触れなければならなかった。

たしかに、ヨーロッパ、アメリカ、それに日本の成長しつづける産業は、多くの美しいものを犠牲にしました。しかしそれでも私たちは、それが多くの恵み、そう、恵みをもたらしたことも、忘れてはなりません。(抜粋)

そして著者は、最後にこのように言って、長いあとがきを締めくくっている。

第一次世界大戦の章で終わっていたこの歴史書は、「私たちはよりよい未来を期待し、それはかならず来る」という言葉で閉じられていました。よりよい未来は、じっさいに来たのでしょうか。この地球に住むすべての人間に来たとは、到底いえません。人口の絶えず増えつづけているアジア、アフリカ、南アメリカでは、私たちの国々でもそれほど遠くない以前まであたりまえとされていた貧困が、今日なお支配しています。それを根絶することは、容易ではありません。とりわけそれらの地域では、いつものように、貧困が、非寛容と密接に結びついているからです。しかし、情報の伝達手段の発達は、ゆたかな国々の良心をも少しばかり目に見えるようにしました。はるか遠くの地であっても、地震、洪水、あるいはかんばつが多くの犠牲者を出せば、ゆたかな国の何千という人々が、援助の手を差し伸べようとするからです。これは、以前にはなかったことです。これは、半世紀前に私が期待したあの「よりよい未来」を、私たちは今日なお期待してもよいという証明です。(抜粋)

コメント

タイトルとURLをコピーしました