ヨーロッパに生まれたふたつの国
エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』 より

Reading Journal 2nd

エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

三八 ヨーロッパに生まれたふたつの国

わたしは、おれたちの子どものころは、まだドイツやイタリアという国はなかった、と語るひとたちをたくさん知っている。(抜粋)

冒頭で著者は、このように語り始める。第38章は、「ヨーロッパに生まれたふたつの国」つまり、ドイツイタリアについてである。


この本の最初「昔、むかし」の章に書いたように、著者は、名著『美術の物語』で有名な、ゴンブリッチである。しかも当時若干25歳! そう、この本の原著は1935年出版なのである。そういうことで、このあたりは、ゴンブリッチにとってつい最近のような感じになってきているようである。(つくジー)


一八四八年の市民革命の後、ヨーロッパは新しい鉄道が敷かれ、電線が張られ、工場都市に多くの農民が流れ込んだ。しかし、ヨーロッパは、大公領、王国、侯国、共和国のつぎはぎ細工であった。

そのころ、イギリスを除けば、ヨーロッパは、オーストリア帝国、再び帝政となったフランスロシアの三つの大国が勢力を競っていた。
ヨーロッパの中心のオーストリア帝国は、一八四八年以来、皇帝フランツ・ヨーゼフがウィーンで政治を取っていた。そのころイタリアの多くの地方は彼自身、それ以外は彼の家族の支配下にあった。そしてドイツは、一八〇六年にナポレオンによりドイツ皇帝が廃されてからドイツ皇帝は存在せず、ドイツ語を話す国が集まったドイツ同盟となっていた。
ヨーロッパの西のフランスは、一八四八年の市民革命の後、ふたたび帝政国家となっていた。ナポレオン三世が、まずは共和国の大統領に、続いてフランスの皇帝に選ばれた。当時のフランスは多くの大工場都市をもつ、とびぬけて豊かで強力な国になっていた。

そして西にはきょうだいなロシアがあった。ロシアの皇帝、ツァーリは、国民に愛されていなかった。当時のロシアには多くの若者がフランスやドイツの大学で学んで近代的、現代的に考える人間となっていたが、ロシア帝国は、まったく中世のままであった。
一八六一年になってはじめて、農奴制が廃止されたが、約束と実行は別であった。

全体からみればなおロシアでは、「クヌーテ」とよばれた皮のむちが支配していた。自由を口にする者があれば、たとえそれが無害なものであっても、軽くて流刑としてシベリアへ追放された。当然のことながら、近代をまなんだ学生や市民はツァーリを激しく憎んだ。ツァーリは、つねに暗殺者をおそれて暮らさねばならなかった。そしてじじつ、歴代のほとんどのツァーリはころされ、彼らは、ますます身辺の警備をきびしくしたのだ。(抜粋)

そして、そのころスペインは、アメリカの領土を失って以来まったく力をなくし、トルコは「病人」と呼ばれるほど弱り、もはやヨーロッパに領土を保持する力は無くなっていた。

そして、フランスとオーストリアが争ったイタリアの領土の奪い合いは終わってなかった。しかし、鉄道がイタリア人同士を近づけ、自分たちは同じイタリア人であるという意識を持った。そしてイタリアの小さな王国の大臣、カミロ・カヴールは、イタリアの統一を支持するように、フランスの皇帝ナポレオン三世を説得した。フランスにとってイタリア統一の支持は、オーストリアを害するという利点があった。そして、その頃、ガリバルディが若い仲間と立ち上がった。
そして、カヴールの戦略とガリバルディの情熱的な戦いが実を結び、オーストリアは破れ、一八六六年にイタリアは統一された。

北方でも、同じような事情があった。それはプロイセンであり、当時の首相ビスマルクであった。ビスマルクはプロイセンを強くすること、そしてプロイセンのもとで統一されたドイツ帝国を築くことを望んだ。
一八六六年にビスマルクはオーストリアに軍を向かわせた。そしてオーストリアは破れ、ドイツ同盟から脱退する。その後、ビスマルクは、フランスのナポレオン三世に宣戦を布告する。すると他のドイツの国もその戦いに加わった。プロイセンはパリを数ヶ月にわたって包囲した。その時ヴェルサイユでプロイセン王にドイツ皇帝の称号をあたえるように、ドイツの諸王や諸侯を説得した。そしてヴェルサイユの鏡の間でドイツ帝国の創建が厳かに行われた。
パリ包囲が続いていたフランスでは、労働者革命も起こり、フランスはドイツに国土の多くと莫大な賠償金を払い講和した。その後、フランスはナポレオン三世は退位させられ、共和制を築く。

ビスマルクは、統一されたドイツ帝国の最初の首相(宰相)となった。彼は思うままにドイツの政治を取り仕切り、ドイツの改革を行った。
一八七八年にヨーロッパの諸侯が、小さくなった世界の分割を話し合うためにベルリンに集まった時もビスマルクは会議を取り仕切った。しかし、第二代ドイツ皇帝となっていたヴィルヘルム二世は、ビスマルクとの意見が合わずに彼を解任した。ビスマルクはその後の数年を先祖代々の領地でドイツ政府の新しい指導者たちを見守り続けた。

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