騎士の時代の皇帝
エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』 より

Reading Journal 2nd

エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

二四 騎士の時代の皇帝

前回、第23章は、騎士と十字軍の話だったが、今日のところ第24章は、騎士の時代の皇帝、ホーエンシュタウフェン家の皇帝たちの話である

この騎士の時代にドイツでは、ホーエンシュタウフェンという騎士の家系が力をつけていた。この家系からでたのが「赤ひげのフリードリヒ」と呼ばれるフリードリヒ一世である。フリードリヒ一世は、ドイツの皇帝であったがイタリア語で「フリードリヒ・バルバロッサ」と呼ばれている。彼は何度もイタリアに向かったためである。
騎士の時代のドイツでは、都市というものがほとんどなく貨幣が広まっていなかった。しかし古くから交易で栄えたイタリアでは貨幣が広く流通していた。フリードリヒ一世は、貨幣が必要であったためイタリアの商人から税として貨幣を取り立てようとした。しかし、力をつけていたイタリアの商人は、税を払おうとしなかったため、彼は何度もイタリアに遠征することになる。一一五八年、フリードリヒ一世は、高名な法律家を集め、神聖ローマ帝国の皇帝は、古代ローマ帝国皇帝の後継者として、彼らが持っていたすべての権利をもつと宣言させた。しかし、それでも商人は税を払おうとせず、フリードリッヒ一世は、イタリアに進軍したが、彼が故郷に向かうとまたドイツ皇帝を無視した。

フリードリヒ一世は、騎士の鏡として有名であった。彼は一一八九年の第三回十字軍に加わり進軍した。しかし途中の小アジアの川で溺死してしまう。

バルバロッサの孫、フリードリッ二世も偉大で驚嘆に値する人物だった。
彼の後見人は、教皇インノケンティウス三世であった。彼は、文字どうり聖職者だけでなく全ヨーロッパの君主も支配した。彼の権威はイングランドまで及びイングランド王ヨハン(ジョン)が彼の意に従わなかったとき、教皇は王を破門し、すべての司祭にイングランドでのミサを禁止した。それに起こったイングランドの貴族たちは、王からすべての権力を取り上げた。一二一五年に、王ヨハンは、以後貴族たちの意に反したことを行わないという約束をした。これが、「大いなる約束」あるいは「大いなる手紙」(「マグナ・カルタ」)である。

若いフリードリッヒ二世は、非常に賢明であったためドイツすべての大公を味方につけドイツとイタリアの封建君主の上に立った。フリードリッヒ二世も十字軍の遠征に向かった。彼は戦うことなく、その地のカリフやサルタンと話し合い協定を結ぶことによって、キリスト教徒の巡礼者の安全とエルサレム周辺のすべての国がキリスト教徒の支配下に置かれることを約束させた。しかし、皇帝とアラビア人との間があまり良すぎるとして、教皇から破門されてしまった。そして、故郷に変えたフリードリッヒはしだいに孤独になり、一二五〇年に亡くなった。そして彼の孫に時代にホーエンシュタウフェン家は滅んだ。

この頃、アジアではジンギス・カーンチンギス・ハーン)は、中国を襲いつづいてペルシアにつづきヨーロッパに向かった。彼らはハンガリー、ポーランドなどを荒らしたのち一二四一年ついにドイツに達しようとしていた。その時彼らの首領がシベリアで死んだためモンゴルの戦士は、引き返して行った。

ホーエンシュタウフェン家が滅んで以降、ドイツでは混乱が起こっていた。しばらくは、強い者が、弱い者からすべて奪う「強者の正義」あるいは「こぶしの正義」の状態が続いた。しかし、パプスブルクルドルフが一二七三年に王となった。小さなスイスの城を拠点としていたルドルフは次第に領土を広げ、一二八二年には、ボヘミアの王オットカルから奪った領土を息子たちに封土した。今日のオーストリアである。その後も彼は領土を広げてヨーロッパでも有数の大公家となった。

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