『餓死した英霊たち』 藤原彰 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第一章 餓死の実態 – 2 ポートモレスビー攻略戦 (後半)
ポートモレスビー陸路攻略作戦は、最初から困難であった。作戦は、ニューギニア島のラエとサモアに上陸から始まったが、輸送艦、巡洋艦、駆逐艦などが被害を受けたため、モレスビーへの海路攻略は中止された。この時すでに制空権を米軍に握られており、物資の海上輸送も思付かない状態だった。しかし、陸路、ジャングルを抜け四○○○メートル以上の山脈を越えて行こうとする作戦には変更が無かった。
南海支隊の主力はブナ南方に上陸しスタンレー山系にわけいり、モレスビー飛行場を望む地域まで到達した。
南海支隊の状況は深刻であった。食糧不足から将兵の体力がひましに衰えていくのに反し、モレスビーに近づくと濠軍の抵抗は強くなっていた。九月一四日、堀井支隊長は田中参謀に「田中君、わしは是が非でもポートモレスビーをと考えていたが、さっき谷川で手を洗いながら兵隊の飯盒を見て、決心を変更した」と語った。「兵隊のもっている米は前の陣地をとるだけでも覚束ないだろう。兵隊で明日まで飯を二合と焚く者がない。殆どの兵隊がこれで米は終わりだといっていた。食糧の不足は十分わかっていた筈だが、これほどとは思わなかった。これ以上進出するのはそれだけ自殺行為を速めることになる」といったという。(抜粋)
この時から、支隊は困難な退却戦が始まる。支隊は困難な退却戦をへてブナ周辺にたどり着くが、連合軍はブナ地方にたいする攻撃を始める。敗残部隊は、全滅寸前であったが、大本営は現状を無視して、附近の確保を命じ、新たに軍隊を送り込んだ。
制空権を完全に奪われて補給ができないのに、人員だけを送りこんで確保せよと命じるのは餓死せよというのに等しい。(抜粋)
苦闘は一ヵ月以上続き、ある部隊は玉砕し、のこる部隊も飢餓状態に陥る。
こうした状況のなかで、一月二〇日残存した一部の兵力はギルワを脱出したが、脱出を共にできない患者は陣地に残され、その多くは自決した。堀井少将の後任の南海支隊長小田健作少将も、脱出部隊を見とどけたあと自決した。(抜粋)
この戦いでは、戦死者やく二○○○余、負傷、病気による後送約三○○、生存者二○○名であり、戦死者のうち三割が弾丸によるもので、七割が病死であった。
現地部隊は、情報資料で作戦の問題点を指摘する、しかし、大本営は、これを無視し依然として作戦の失敗を指揮官の精神的要素に原因があるとした。
すなわち、遠く海洋を隔てた後方の上級指揮機関は、第一線の状況をもっと認識するべきだとか、飢餓が軍人の節操、軍紀をいかに弛緩させるとか、未開地の兵要地誌を綿密に調査する必要があるなどという現地からの教訓は受け容れられなかった。大本営は精神力が作戦の成否を分けたのだとし、教訓として指揮官、幕僚にいっそうの精神力発揮を要求しているのである。こうした大本営の精神主義むきだしの指導でその後二年間にわたって東部ニューギニアで、同じような作戦がもっと大規模にくりかえされることになるのである。(抜粋)
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