『餓死した英霊たち』 藤原彰 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二章 何が大量餓死をもたらしたのか – 2 兵站軽視の作戦指導
前節では、日本軍は、補給ができない状態にもかかわらず、作戦を優先させて軍隊を派遣しつづけその多くを餓死させてしまった事が解説されていた。本節では、日本軍が兵站をいかに軽視していたかを概観する。そして、著者は、ここで大陸に送りこまれた大量の馬の被害についても、告発している。
もともと日本陸軍は、対ロ(対ソ)戦を第一目標に編成されていた。その予想戦場は北満州やシベリアであるため、北方に軍需品や食料の補給用の大規模な後方部隊が存在した。一九四一年には大規模な動員を行い八五万の戦時体制になる。しかし、満州に大動員を行っておきながら、対ソ武力行使は中止され、南方攻撃に国策が転換した(このあたりの事情は『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』も参照)。この時、大規模な後方部隊がありながら、満州の集積物資は抽出せず、足りない分は中国方面からさらに引き抜くという、後方軽視の方針が示される。
この「糧は敵による」という現地自活主義が南方作戦全体に及ぶ方針であった。この現地自活主義は、どこでも通用する話ではなく飢餓に通じる道であったと著者は強調している。
この現地自活主義は、占領後の軍政にも大きな影響を及ぼした。四一年一一月二〇年大日本政府連絡会議は、「南方占領地行政実施要領」という方針を決定した。これは「国防資源収得と占領軍の現地自活のために民生におよぼさざるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ」というもので、軍の自活のために現地民衆の生活を圧迫することも辞さない、というのが基本政策だったのである。もちろん政策は現地民衆を苦しめたのだが、状況によっては占領軍の兵士たちもこの方針に苦しめられた。大量の餓死者を出すことになるのである。(抜粋)
また、日本軍は兵用地誌の調査が不足していたため、兵站や物資の補給に影響をおよぼした。特にニューギニア(ココ参照)においては、広大なジャングルに点々と集落がある状況にあるにもかかわらず、大本営は中国戦線と同じように考えて作戦を実行する。そして、それによって大量の餓死者が発生する。
気の毒なのは、とにかく第一線であった。上級指令部や大本営が、敵の先方に関する情報を知らず、密林の孤島に点化された認識もなく、増援部隊はもちろん、握り飯一個もようよう送り届けないで、一歩たりとも後退させないという非常さはどこから来たのであるか?要するに大本営作戦課や上級指令部が、米軍の能力や戦法及び地形に対する情報のないまま、机上で二流三流軍に対するのと同様の期待を込めた作戦をたてたからである。(抜粋)
著者は、ここで後方を担った馬の犠牲について告発している。
この戦争では中国から南方に広がる戦線で、五〇万頭を超す馬が犠牲になり、人間と違って一頭も帰国できなかった。(抜粋)
そもそも日本軍は欧米軍隊と違い機動力も輸送力も馬に頼っていた。このような馬たちは、人間の食糧さえ送れない状況で馬糧は、真っ先に犠牲にされて馬の餓死や斃死が当たり前となり、馬を食料として食べるという場合も生じた。
このような馬の犠牲は正確にはわからないが、少なくとも一〇〇万頭におよぶと著者はいっている。そして、大量の馬を動員したため日本の農家の生産力は低下し、戦後の日本の農村の風景を一変させたとしている。
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