『餓死した英霊たち』 藤原彰 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第一章 餓死の実態 – 6 フィリピン戦での大量餓死
アジア太平洋の戦場であったのフィリピンであった。フィリピンでは、六一万三六〇〇の大兵力のうち、四九万八六〇〇人が犠牲となった。実に81%である。
これは大本営が、フィリピンを決戦場だとして、やみくもに大兵力を投入し、しかも決戦に敗北した後も何の策も講じずることなく、この大兵力を飢餓に晒されるのを放置したことの結末でもあったのである。(抜粋)
大本営は、当初陸上の決戦をルソン島で行うと定めて第一四方面軍を配備した。しかし、四四年に米軍がレイテ島に上陸すると、方針を転換してレイテ島で決戦を行うと方針転換した。これは、レイテ島上陸前に米機動部隊に大打撃を与えたという誤った情報による転換だった。
そして、米機動部隊は健全であったため、ルソン島から急いでレイテ島に兵力を送ろうとした聯合艦隊は、ことごとく船舶を沈められた。
このためレイテ島では、決戦どころか、上陸した陸軍部隊は、兵器も弾薬も欠乏し、食料は皆無で飢餓に晒される結果となった。(抜粋)
大本営は、レイテ島での決戦を諦め再びルソン島での決戦方針としたが、すでに大部分の兵力はレイテ島に移動していてそれは不可能だった。結局、陸軍十四方面軍と軍艦や飛行機を失った海軍南西方面艦隊は、山中に入って持久戦を行うほかなくなる。
レイテの戦いは、日本陸軍にとって最初で最後の対米軍の決戦だったが、兵力も集中できず、装備も貧弱で決戦らしい戦闘も展開できずに敗北した。そして、戦死せずに残った者の末路は悲惨であった。
レイテ島では、二十五万人の大兵力の米軍に加え、米比軍のゲリラが活動していて、日本の敗残兵は、山中に追い込まれた。食料を得る方法がない彼らは、極限の人肉食いにまでに走ったという。
『野火』や『レイテ戦記』でこの問題を取り上げた大岡は、「これはわれわれの良心に最も重くこたえる事実です」と書いている。(抜粋)
フィリピン戦の戦没者は約五〇万人である。そしてその特徴として、著者は次の二点を指摘している。
まず、フィリピンではレイテ島をはじめ激しい戦闘が行われたが、純然たる戦死者よりも病死・餓死のほうがはるかに多かったこと。次に、輸送船が沈められたための水死が多かったことである。
フィリピンは、ガダルカナルやニューギニアの場合と異なり多数の住民がいた。そのため、住民を巻き込んだ戦闘が行われただけでなく、日本軍が住民の食糧を奪い、さらに大規模な住民虐殺が多発した。この住民虐殺については、石田甚太郎が『ワラン・ヒヤ ― 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』を、上田敏明が『聞き書きフィリピン占領』を書いて記録している。
関連図書:
大岡昇平(著)『レイテ戦記』、中央公論新社(中公文庫)(全四巻)2018年
大岡昇平(著)『野火』新潮社(新潮文庫)1954年
石田甚太郎(著)が『ワラン・ヒヤ ― 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』、現代書館、1990年
上田敏明(著)『聞き書きフィリピン占領』、勁草書房、1990年
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