『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』 若松 英輔、小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二章 「束の間」を生きる (前半)
今日から第二章となる。第二章では、「空(へベル)」「風(ルーアハ)」の二つの言葉の意味について語られ、その後に「コヘレトの幸福論」について解説される。今日のところは、まずは「コヘレトの言葉」のキーワードである「空」と「風」についてである。
「コヘレトの言葉」には「空」という言葉がたくさん出てくる。この「空」はヘブライ語で「へベル」と言う語であり、「空しい」という意味を担っている。そのため、ネガティブな印象でとらえられることが多い。しかし「コヘレトの言葉」では、必ずしもそうではない。この「コヘレトの言葉」の「へベル」は、意味が広く英語の聖書などは、様々な訳語があたえられている。そのため、どの訳語を選択するかは非常に難しい。
(小友)そこで私は、この「へベル」を「束の間」と訳しました。そのように訳すことによって、「コヘレトの言葉」の「へベル」の意味の本質に、近づけるのではないかと考えています。(抜粋)
「コヘレトの言葉」の中では、「へベル」を「空しい」と訳さざるを得ない部分もあるが、「束の間」と、時間的に短い時間の意味を伴った言葉で訳すのがふさわしい。
ここで、若松が「空」という言葉が必ずしも仏教だけの用語でなく、宗教に偏在しているとても大事な不可視な実在を示す言葉であると指摘する。
(若松)キリスト教でも「無」と呼ぶほかのないものが「有」の源であると説く、マイスター・エックハルト(一二六〇~一三二八頃)のような人もいます。エックハルトについてはのちに詳述しますが、エックハルトのいう「無」は、何もないことではなく、名状しがたい無限のエネルギーを指しています。(抜粋)
さらに若松は、「空(へベル)」に似た言葉として「無常」があるとして、鴨長明の『方丈記』を再読したといっている。
(若松)学校で『方丈記』を習うときには、この作品は無常の文学だと教えられます。しかし読んでみると、実は違って、「無常」とはむしろ常なるもの、永遠のことを指しているのではないかと思いました。
・・・・中略・・・・
『方丈記』で鴨長明が明らかにしようとしたのは、「空しい」と感じさせるものすべてを包む何か、すべての無常なるものを包む「常なるもの」、キリスト教の言葉でいえば「永遠なるもの」なのです。(抜粋)
次にもう一つのキーワードである「風(ルーアハ)」の話にうつる。
この言葉について、小友が「風を追うようなことだ」というフレーズで説明をしている。
- 「追う」は、ヘブライ語で「レウート」であるが、「養う」「抱く」という意味もある
- 「風」は、ヘブライ語で「ルーアハ」であるが、「息」「霊」とも訳すことができる。そして、この「息」は神の息である。
(小友)つまり「風を追う」には、神の息を養う、神の息を抱くという味わい深いニュアンスが含まれている。(抜粋)
これを受けて若松は、この「息」はむしろ「息吹(いぶき)」と訳すほうがその意味に近づくと付け加えたのちに、
(若松)「神の息吹」というのもキリスト教だけの考え方ではありません。私は書き手として出発するときに、哲学者の井筒俊彦(一九一四~九三)にとても影響を受けました。彼はイスラムについて研究した人でもあったわけですが、イスラム神秘主義にも「神の慈愛の息吹」という表現が出てくる。万物は神の慈愛の息吹によって存在している、と説くのです。(抜粋)
と「空(へベル)」の時と同じく「風(ルーアハ)」も宗教に関わらない広がりがあるとしている。そして、この宗教の普遍性について若松は、カトリックの修道司祭のビード・グリフィス(一九〇六~九三)の話を語る。彼は、宗教と霊性は、ちょうど手のひらと指の関係であり、それぞれの宗教(指)は、離れて存在していてもその霊性(手のひら)によってつながっていると語っている。
(若松)私たちの宗教的交わりは、言葉を通じて起こっているというよりも、もう少し深い層でつながりあっている。このことが、「空」や「風」といった言葉からわかります。(抜粋)
そして、さらに若松は、マイスター・エックハルトの「魂の神殿について」(『エックハルト説教集』岩波文庫)から長い文章を引用して、その文章での「空」と「コヘレトの言葉」の「空」とが響き合い時間を越えて、私たちに大事な存在の根源のようなものを教えられるのではないかと語り、それに対して小友は、
(小友)人間は神から造られた存在であるにもかかわらず、すべてのものを独占しようとしてしまうですね。自分のものにするとは満たすことですから、空っぽになりません。しかし、空っぽの場所にこそ、人間を超えた聖なるものが入り込む余地があるのではないでしょうか。空っぽの場所があれば、神の霊的世界がそこを満たしてくれる。そのように理解できると思います。(抜粋)
と語りさらに、
(小友)「空の空、空の空、一切は空である」。この「空(くう)」を「空(から)」と読むことも可能ですよね。そのように読むことによって、「コヘレトの言葉」の世界がいまよりもっと積極的に理解することも可能になる気がしました。(抜粋)
とし、「コヘレトの言葉」の新たな読みの可能性についての気づきを語っている。
コメント