すべての出来事に時がある(その3)
小友 聡『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』より

Reading Journal 2nd

『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第3回 すべての出来事に時がある(その3)

すべての出来事には時がある(その2)では、「ヨブ記」を「時の秘儀」をキーワードにその意味を探った。(その3)では、ふたたび「時の詩」にもどり、その意味について語っている。


「すべての出来事に時がある」の「時(=カイロス)」は、神の秘儀である。すなわち謎なのである。ここで、著者は、この「時の詩」もこれまでのコヘレトの思想と一貫性があるとしている。

これまで、コヘレトは「すべては空である」、つまりへベル(=束の間)であると語っていた。この「時の詩」では、一度も「空=(へベル)という言葉は使わないが、「時」を使って「へベル」の本当の意味を教えているといっている

人生はへベル、束の間です。そのへベルの人生は、しかし神が支配する「時」で満ちているのです。不思議な時で満ちた人生は、謎に満ちているとしか言うほかありません。生まれたときも、死ぬ時も、いや人生全体がカイロスで満ち足りているのです。
人生はカイロスのあとを追いかけるようにして生きているのです。しかし、どんなに「時」をつかもうとしても、決してつかむことができません。…中略・・・・
そんな「時」は、まさしくへベルであり、「神の賜物」であるとコヘレトは言いたいのではないでしょうか。そう考えると「すべての出来事には時がある」という言葉は、私たちの人生を照らす恩恵という肯定的な光のように感じます。(抜粋)

こへれとの「時の詩」を見ると、「時がある」と何度も繰り返している末に「戦いの時があり、平和の時がある」で終わっている。
この「平和」はヘブライ語で「シャローム」であるが、その語源「シャロム」は「回復する」「補填する」「充足する」「調和をもたらす」などの意味があり、単に戦争が無いという意味ではない。

コヘレトの時代、歴史に翻弄され疲弊しきったイスラエルの人々は、償い、和解、回復、平和を与えてくださる神の支配を待ち望みました。そのすべてを象徴する言葉がシャロームです。シャロームは、いわばイスラエルの悲願であり、希望だったのです。(抜粋)

そして、著者は、「時の詩」がこのシャロームで終わっていることは、コヘレトが人生を肯定している証であるとしている。

最後に著者は、第2回のテーマである「時の詩」の意味について次のようにまとめている。

人生はへベルであっても、いや、へベルであるからこそ、神なら与えられた今という「時」を生きよ。コヘレトの「すべての出来事に時がある」は、そんなメッセージのように思えます。(抜粋)

第2回では、「空=へベル」という言葉がキーワードになっている。そして、この言葉を「束の間」ととらえる著者の読みにより、第3回の「時=カイロス」と意味が重なってくる。人生は「束の間」であり、そしてその束の間の人生は、一瞬だが永遠でもある不思議な時(カイロス)に満ち満ちている。だからこそ、その神から与えられた「今」この時を、生きよ、ということでしょうかね?それこそ「腰の帯を締め、私に答えてみよ」(ココ参照)と問われているんすね。(つくジー)

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