『書簡で読み解く ゴッホ――逆境を生きぬく力』 坂口哲啓 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第4章 面白うてやがて悲しき……――パリ(前半)
長い修行の後にゴッホは、やっとパリに到着する。第4章はパリでのゴッホを追う。ゴッホはパリで印象派とその色彩理論と出会い。また、多くの仲間と知り合ったことにより、自分の絵画を発展させる。しかし、パリで過度の飲酒は喫煙のため健康を害した。そして、次の飛躍へとアルルへと旅立つ。
ゴッホはテオの同意がないままパリに到着する。そして、モンマルトルのテオのアパルトマンに移り住んだ、これから2年間、テオとの同居生活が始まる。
テオと同居したゴッホは、毎日テオが帰宅すると自分の美術論、美術界の現状について自説を延々と話した。テオはこれがかなり苦痛で、妹に次のような手紙を送ってい
「かれのなかにはまるで二人の人間がいるみたいだ。一人は驚くべき才能に恵まれた。優しい、繊細な心の持ち主、もう一人は利己的な、無情な人間。二人は交る交る立ち現われてくる。だから、最初の片方の人間の話を聞くのだが、次のときは別の方の人間の話を聞かされねばならぬ。そして、二人はいつでも正反対の議論をし合っているのだ。気の毒に、かれはかれ自身の敵なのだ。というのは、かれは他人のためばかりでなく、自分自身のために生活をつらくしているからだ。」(ヨハンナ・ファン・ゴッホ = ホンゲル著『フィンセント・ファン・ゴッホの思い出』より。日本語版『ファン・ゴッホ・書簡全集』第一巻、三四ページ)(抜粋)
ゴッホはここで、コルモンの画塾に通うことになる。この塾も結局は、三、四ヶ月で辞めてしまうが、ここで、エミール・ベルナールやトゥ―ルーズ・ロートレックと出会い友情を結ぶ。とくにえ15歳年下のベルナールには、親しく交わり絵画の技術的なことばかりでなく、生き方にまで助言を惜しまなかった。ここで、著者はゴッホがベルナールに送った手紙を引用している。
パリに来て二年目の夏には、画家仲間といかに付き合うべきかを、ベルナールが仮にシャニャックと仲違いした場合を例に挙げて、次のように書いている。
「仲たがいした場合には、反省してみれば、自分の方にも相手と同じくらい間違いがあることがわかるし---また、われわれが自分たちのために主張しうるのと同じくらい正当な理由が相手方にもあることに気付くものだ。だから、シャニャックや点描をやる連中がそのやり方で実に美しい作品をずいぶん描いている点をもしきみがすでに反省していたら、けなしたりせずに、ことに仲違いしている場合は相手を重んじて、同情をもって語るべきだ。さもないと、自分が派閥的な、偏狭な人間になって、他人の価値を全然認めないで自分だけ正しいと信じ込んでいる連中と同じになる。」(書簡B1)(抜粋)
ゴッホは、強烈な自我の持ち主だったが、自分の利益だけを追及するような我欲優先の人ではなく、他者にも公平に心を開くことができる人だった。パリでのゴッホは、ベルナールやロートレックの他に、アンクタン、ゴーガン、シャニャック、ギョ―マン、リュシアン、ピサロ、ジョンアッセルなどの画家と友人となり、知り合いのカフェで展覧会行ったりしている。
ゴッホは、パリでタンギー爺さんと親しくている。タンギーはゴッホに強い友情を感じ、ゴッホ葬儀にはわざわざパリから駆けつけている。またゴッホもタンギーに親しみ感じていて、アルル時代の手紙には、「自分も年をとったらタンギーじいさんみたいになるかもしれない」(書簡)といっている。
著者は、ここで有名な「タンギー爺さんの肖像」を例にとり、パリでのゴッホの絵について解説をしている。また、ゴッホにとってタンギー爺さんの意義を次のように言っている。
タンギーは、フィンセントがパリで出会った多くの人物のなかで、ハーグ時代の「民衆」やニューネン時代の「農民」に直結する唯一の人物だった。パリのなかで、タンギー親父の存在もまた、フィンセントに、自分が<自然の一部>であることを実感させてくれる人物だったのだ。大都会のただなかでタンギーに出会えたことは、フィンセントには、故郷に戻ったような懐かしさと安堵感を与えた。(抜粋)
関連図書:ヨハンナ・ファン・ゴッホ = ホンゲル(著)『フィンセント・ファン・ゴッホの思い出』、東京図書、2020年
:ファン・ゴッホ (著), 二見 史郎 (翻訳)『ファン・ゴッホ書簡全集』全六巻、みすず書房、1969- 1970年
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