『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第1章 すべては空しい
コラム 「空しさ」と「空」
コヘレトはいう。 なんという空しさ なんという空しさ、 すべては空しい。 (コヘレト1・2) [新共同訳]
コヘレトは言う。 空の空 空の空、一切は空である。 [聖書協会共同訳]
「コヘレトの言葉」の第一章は、表題(1節)、標語(2節)、最初の詩文(3-11節)、王の企て(12-18節)という内容である。
表題は、コヘレトが「エルサレムの王」、ソロモンであるということをほのめかす虚構の言葉が書かれている。そして、この「エルサレムの王」が発する「なんという空しさ、すべては空しい」が、この書全体を通貫する主導理念である。この「空しさ」は、「へベル」というヘブライ語で時間的な短さ、儚(はかな)さを含意していると考えられる。
コヘレトはただ単に、「空しい」と嘆くのではありません。人生は短く、儚いという事実を表明しているのです。ここに「コヘレトの言葉」を読み解く鍵があります。(抜粋)
詩文3-11節は哲学的であり、宇宙は循環し完結せず満ちることが無いと語り、まるで輪廻転生のような世界観である。
これは創世記の言葉
「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも 寒さも暑さも、夏も冬も 昼も夜も、やむことはない」(創世記8.22)。(抜粋)
と重なる。これはイスラエルの伝統的な時間認識である。
皆さんは、意外だと思うでしょうか。確かに、旧約の預言者は歴史の終末について語ります。けれども、創世記にはそのような終末を否定するような循環的な歴史観がありますコヘレトも、どうやらそこに足場を置いて、宇宙には終わりがないという循環的な思考をしているようです。(抜粋)
人間についても同様で「満たされず、満ちることがありません」というのは完成が無いということである。
コヘレトは人間世界に終末などないと考えている。しかし、人生は短く儚い(=「空しい」)と見ている。そうであるならば、ここで「空しい」は、「意味がない」ということになる。
ところが、コヘレトは人生は儚いから意味がないとは決して考えません。逆に儚いからこそ、意味があると考えます。人生が儚いことは、むしろそれをどう生きるかを深く考えるきっかけを与えるのです。(抜粋)
コラム 「空しさ」と「空」
コヘレトの言葉のキーワードである「へベル」は「新共同訳」では、「空しい」と訳され、新しい「聖書協会共同訳」では「空」と訳されている。
この「へベル」は正真正銘、ネガティブな言葉ではなく、コヘレトも人生を完全否定するような結論は出していない。
したがって、訳語としての「空しい」は、必ずしも適切でないため「聖書協会共同訳」では、「空」と訳されている。
「聖書」というものを全く見たことがないのですが、その訳語の違いが深い意味を持つなんて、やっぱり違いますね!(つくジー)
関連図書:
『聖書』「新共同訳」
『聖書』「聖書協会共同訳」
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