『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三章 蒙古襲来と他宗批判(その1)
今日のところからやっと第三章に入る。第二章は『立正安国論』を中心とした話であったが、最後に『法華経』と天台宗の概説があって、『立正安国論』関連で3つ、『法華経』と天台宗関連でさらに2つに分けて、5回となってしまった。
第三章は、日蓮の他宗批判と蒙古来襲に関してである。第二章のその3で日蓮が被った松葉ヶ谷の法難から話が始まる。では、読み始めよう!
第三章のなかなか長くなりそうである。その1は、松葉ヶ谷の法難の後、伊豆配流を受けた日蓮の様子と配流の間に起こった。叡尊の関東下向と叡尊教団の発展と忍性についてまとめることにする。
文応元年(一二六〇)の『立正安国論』の提出は、波紋を生んだ。そして、日蓮の住む名越の草庵が念仏者によって襲撃される松葉ヶ谷の法難が起こった。日蓮はこれを機に一旦、下総の八幡壮に避難した。
この襲撃事件の背景には、念仏系の鎌倉での発展があった。鎌倉の念仏者の首領ととみなされていた道教房念空が長老を務めた新善行寺は、日蓮が松葉ヶ谷草庵跡とされる長勝寺の裏に当たる(高橋慎一朗『中世の都市と武士』)ことは注目すべきである。
松葉ヶ谷の法難の後、日蓮の足取りは不明だが、著者はしばらく下総八幡壮の富木常忍邸に滞在したのではないかと予想している。そして、日蓮は、また鎌倉名越の草庵に戻る。そして、この時、道教房念空の一派が日蓮を訴えたのではないかとしている。
弘長元年(一二六一)五月一二日に、北条重時の子長時(一二三〇~六四)が執権であった鎌倉幕府は、日蓮伊豆配流に処した。日蓮は、長時が父の極楽寺殿重時の意向を汲んだせいだと考えている(「妙法比丘尼御前御返事」)。なお、「御成敗式目」によれば、悪口の咎は、認められれば、御家人は配流であった。僧侶は御家人に準じていたので、日蓮も清澄寺所属の官僧に準じて配流になったのであろう。(抜粋)
日蓮は、伊豆配流中の弘長二年(一二六二)正月一五日に「四恩抄」を書いている。
この「四恩抄」には、この配流は、『法華経』を信仰する者は、恨みと妬みを被るという「法師品」の予言そのものである、ことを大いなる悦びとしている。一方、『法華経』の行者日蓮を謗る多くの者に、千劫の阿鼻地獄に落ちることを決定する一生の原因を作らせたことを大いなる嘆きとしている。
日蓮は、文応元年(一二六〇)の『立正安国論』の提出以来、邪法である念仏を公的に批判し、『法華経』を宣揚してきたにもかかわらず、松葉ヶ谷の法難、伊豆流罪と、続々と日蓮に対する迫害が起こった。 そうした迫害によって、逆に日蓮は法華行者を自覚し、『法華経』の正しさを確証するに至った。日蓮は『法華経』に説かれた、仏の予言を単に知識として知っているだけでなく、身を持って実践しているのが自分であるという確信を抱くに至る。そして、日蓮はそれを『法華経』の色読と呼んだ。(抜粋)
弘長三年(一二六三)二月二二日、日蓮は赦免された。その後の日蓮の足取りは不明だが、富木常忍の屋敷に身を寄せていたと著者は推測している。
ここより叡尊と叡尊教団の発展、およびその高弟の忍性の話にうつる。
日蓮が伊豆に配流されていた弘長二年(一二六二)年に北条実時と時頼の招聘に応じて奈良西大寺叡尊が鎌倉に下向した。この下向には叡尊の高弟忍性の用意周到な根回しがあった。これにより叡尊教団(新義律宗教団)が鎌倉で大きな勢力を築く。名越の尼など日蓮の信者からも叡尊教団に改宗する者も出始める。
著者はこの叡尊とその高弟忍性については、旧仏教改革派として過小評価されていたとしている。
私見では、いわば、もう一つの鎌倉新仏教教団と考えられる。叡尊の時代には一五〇〇ヵ寺の末寺を有する、当時日本最大規模の教団であった。この発展の一つの契機となったのが、この叡尊の関東下向であり、以後、鎌倉幕府の後援も得るに至った。(抜粋)
叡尊は、嘉禎二年(一二三六)九月に西大寺宝塔院(東塔)を拠点に戒律復興運動を始めた。一二四〇年に忍性も叡尊教団に入る。忍性は建長四年(一二五二)に、関東に向かう、その後弘長元年(一二六一)年には鎌倉に入った。そして文永四年(一二六七)年には、極楽寺の住職となり以後、そこを拠点に救済活動を行う。
忍性は、行基[ぎょうき](六六八~七四九)をモデルとして、橋・道路・港の建設や修理、管理などを行い。また疫癘退散、蒙古退散、祈雨などの祈祷にも従事する。そして著者が忍性の活動としてとりわけ重要なものとしてハンセン病患者の救済活動を上げている。彼は極楽寺境内に「癩宿」を建ててハンセン病患者の治療と療養を行った。このような活動から忍性は「生きている仏」として尊敬された。
叡尊の関東下向以降に、念仏の中心的人物道教房念空(日蓮草庵の裏手にある新善光寺の住職)が叡尊に帰依するという重大事件が起こる(松尾剛次『日本中世の禅と律』)。これ以降、念仏の寺が律寺化していく。
以上のように、日蓮が伊豆に配流されている間に、念空が戒律を護持する念仏僧となったことに象徴される念仏僧の律僧化という変化が起こったのである。これこそ、日蓮が忍性を最大のライバルと見なすようになる理由である。(抜粋)
忍性らの律宗は、江戸時代以降は「真言律宗」とよばれ、真言宗を兼学するものであった。そのため日蓮は、忍性らを真言僧としてもとらえていた。
関連図書:
高橋慎一朗(著)『中世の都市と武士』、吉川弘文館、2021年
松尾剛次(著)『日本中世の禅と律』、吉川弘文館、2023年
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