立教開宗へ(後半)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 立教開宗へ(後半)

今日のところは第一章 立教開宗への後半、前半では、日蓮の誕生から比叡山に向かうまでであった。ここで日蓮は、受戒のために比叡山に向かい諸国遊学の後、清澄寺に戻り「立教開宗」を果たす。


日蓮は、一二四〇年代には、受戒を受けるために比叡山に向かっている。ここで著者は、中世において、延暦寺での受戒は形骸化したと考えられているが実際には一四世紀半ばにおいても機能していたとしている。そしてこの延暦寺の受戒について、自らの著作である新版 鎌倉新仏教の成立により、くわしい解説をしている。

従来はこの受戒制が中世には機能を停止していたと考えられていたため、日蓮がなえ畿内を遊学したか明確でなかった。しかし実際な一四世紀半ばまで機能していたため、日蓮も比叡山延暦寺に登り受戒を受ける必要があった。

日蓮は受戒後も畿内に滞在した可能性がある。そしてその費用をだれが出したかについて、著者は、貫名家の出身であるならば実家が支えた可能性があるとし、また東条家の領家の尼が出した可能性もあるとしている。延暦寺での受戒を済ませた日蓮は延暦寺系の人脈を使い畿内はもちろん鎌倉でも就学の機会を得ることができた。著者は日蓮の修学の成果として、仁治三年(一二四二)のかいたいそくしんじょうぶつと建長三年(一二五一)のかくばん(一〇九五~一一四四)のりんみょうみつしゃく」の書写をあげている。

建長五年(一二五二)に三二歳になった日蓮は清澄寺に帰って来る。そして留学の成果を発表する機会をもつ。そして、その内容は「開宗」「立宗宣言」というものだった。
日蓮はこの時初めて題目(「南無妙法蓮華経」)を唱え、「かくげんを発し諸宗批判をしたとされている。
「四箇格言」とはねんぶつげんぜんてんしんごんぼうこくりつこくぞくであり、すなわち「念仏を信じれば無間地獄に落ちる、禅は仏法を破滅させる天魔の行いで、真言は国を滅ぼす、律は国に害をなす者」だというものである。しかし、著者はその頃の日蓮の念頭にあったのは、念仏のみだったと考えられるとしている。当時は禅宗と律宗はようやく勢力を持ち始めたばかりの時期であり、真言宗とは当時の日蓮は親和的だったからである。つまり当時の日蓮は「四箇格言」のように四宗を批判していたのではなく念仏のみを批判していたとしている。

清澄寺が所属していた天台宗は、仏法修行の一つとして念仏を公認していて、清澄寺の所属する東条郷の地頭、東条かげのぶなどの念仏信者も清澄寺の支援者であった。日蓮の念仏批判はこの東条景信らの怒りを買う。

日蓮はこの「立教開宗」を機に名前も蓮長から日蓮に改めた。それは官僧を辞め、遁世僧となることも意味すると考えられている。

日蓮の日とは、『法華経』「にょらいじんりきほん」にある「日月の光明のように、もろもろのゆうみょうを除くことができる」の文に拠り、蓮は『法華経』「じゅうじゅっぽん」の「世間(俗世間)の法に染まらないこと、蓮華が泥水にあるがごとし」の文に拠っている。日蓮は天台宗の行者として日の光のように、人々の迷妄を除き、蓮の花のように濁世に染まらぬように生きようとし、日蓮と改名したのであろう。(抜粋)

従来、日蓮はこの「立教開宗」直後に清澄寺を離れ、鎌倉に向かったとされていたが、著者は「清澄寺住人ぜんのきみにちうん」が日蓮の書写した「五輪九字明秘密釈」を書写した事実により、しばらく清澄寺にとどまったとしている(寺尾英知「日蓮書写の覚鑁『五輪九字明秘密釈』について—日蓮伝の検討」)。

また、建長六年正月に日蓮は聖なる体験をする。

正月の一日に生身の愛染明王を、(おそらく正月)一五日から一七日にかけては生身の不動明王を拝見したのである。(抜粋)

そして日蓮は、この体験をしんぶつという弟子に書き与えている。この新仏とは、先の日吽と同一人物とみられる。このように「立教開宗」以降日蓮は房総各地を歩き回り弟子の獲得に努めている。
その弟子のひとりにじょうにんがいた。常忍は、下総国の守護のすけよりたねの被官(家臣)であり、八幡荘にある守護所の近くに住んでいた。日蓮は建長五年一二月九日に常忍に送った手紙(「富木殿御返事」)により日蓮はこのころ守護所の近くにいたことが分かる。日蓮の弟子にはこの常忍以外にもおおじょうみょうきょうしんなどの千葉氏の被官がいた。

この時期に日蓮が守護所近くにいた背景には東条景信との訴訟事件があった。

清澄寺のある東条御厨は、伊勢神宮領であった伊勢神宮は領家に支配を委ね、地頭を抑えようとていたが、地頭の東条景信は、武力に物を言わせ御厨で飼育されていた鹿(飼鹿)などを狩りとった。そのため領家と争いになり、守護所で裁判となった。
この領家は、領家の尼と呼ばれる女性で日蓮の父母が世話になっていた。そして、東条景信は、日蓮が批判している念仏者であった。

日蓮は領家方に味方し、訴訟勝利を祈禱しただけでなく、富木常忍の協力を得て、領家方の勝利のために働いた。その結果、領家方勝利の判決が出て、東条景信は清澄寺に出入り禁止となったという。(抜粋)

日蓮は訴訟に勝利したが、東条景信の目のかたきとされるようになった。そして日蓮は清澄寺を離脱して遁世僧としての活動を本格化させる。
以後日蓮は「天台沙門」(沙門は遁世僧を表す)と名乗るようになる。そして、延暦寺をも批判し始める佐渡配流以降は「本朝沙門」と名乗っている。


関連図書:
松尾剛次(著)『新版 鎌倉新仏教の成立』、吉川弘文館(中世史研究選書)1998年
寺尾英知(著)『日蓮書写の覚鑁『五輪九字明秘密釈』について—日蓮伝の検討』、吉川弘文館、2002年

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