立教開宗へ(前半)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 立教開宗へ(前半)

めに」の冒頭でいきなり宮沢賢治が出てきたのはびっくりしたが、さてさて今日から本編に入る。第一章は日蓮の誕生から立教開宗まで。今日のところ、前半はまずは比叡山に登るまでまとめるととしよう。


日蓮は、慶応元年(一二二二)に安房国長狭郡東条郷片海(現・千葉県鴨川市)に生まれた。日蓮の誕生地とされる小湊には、後に日蓮宗誕生寺が建設された。この地は伊勢神宮の領地であるくりやであり、日蓮はそのことを誇りに思っていた。日蓮の誕生日は、いくつかの説があるが著者は四月一三日以降としている。そして幼名は薬王丸と言った。

以上のように日蓮は関東地方の片田舎の地に生をけたのである。この関東の地出身という意識は日蓮の活動に大きな意味をもった。というのも、関東と関西では言葉をはじめとする文化の相違が大きかったからだ。日蓮が主な布教の場を畿内でなく鎌倉にしたのも、安房の出身という意識が大きく作用したと考える。(抜粋)

日蓮は、自己を「賤民の子」「せんの子」「片海の海人の子」と言っているが、これは苦悩する民衆、最下層の被差別民に寄り添う姿を現す言葉であって、そのまま受け取るべきでない、と著者は言っている。
著者は、文明一〇年(一四七八年)成立した日朝による実証的な日蓮の伝記『元祖化導記』を参照する。

すなわち、遠江国(静岡県)の貫名重光という武士が安房国に流され、その次男の重忠に五人の子があって、その四男が日蓮であったという。(抜粋)

こうした『元祖化導記』や日蓮関係の紙背文書に貫名が一族の「ぬきなの御局」が見えることにより、日蓮は安房国の貫名氏の出身という説(中尾堯「日蓮聖人伝と「ぬきなの御局」」)がだされていて、著者もその説を取っている。

日蓮は、一二歳(数え年)の時、天福元年(一二三三)に清澄寺(現・鴨川市)に登った。ここで著者は、その理由についてははっきりしないとしている。そして、片親もしくは両親が亡くなった可能性について言及している。
その後、稚児として仏教などの勉強をしていた日蓮は、一六歳で正式に出家した。僧名はしょうぼうれんちょうと名乗った。ここで日蓮は清澄寺所属の官僧の雛僧となった。このころ天台山門の僧は、出家後に比叡山延暦寺(現・滋賀県大津市)に登り受戒を経て一人前の官僧となることになっていた。

ここで著者は、当時の僧と尼の身分について概観している。鎌倉・室町時代の僧と尼の身分は、「官僧(官尼)」とんせいそう(遁世尼)」の二つの区分があった。

  • 官僧(尼):官僚僧(尼)で天皇から出家(得度)を認められて僧になり、延暦寺、東大寺、観世音寺の三戒壇でのいずれかで受戒し一人前の僧となる。受戒は戒律護持を誓う儀式である。
  • 遁世僧(尼):官僧身分を離脱した私僧のこと。法然、親鸞、道元、一遍をはじめ旧仏教改革派とされる明恵、叡尊、忍性なども遁世僧である。
官僧は、天皇に仕える祈禱僧として、衣食住の保証や刑法上の特権などが与えられた。そうした特権の一方で、穢れの忌避などの制約があった点は注目すべきである。(抜粋)

日蓮も清澄寺の官僧として穢れを忌避しながら、鎮護国家の祈禱などに従事した。

日蓮は、一二歳で清澄寺に登り、一六歳で出家し、清澄寺で天台宗の修学に励んでいる。その後「立国開宗」を宣言する三二歳まで、鎌倉、京、比叡山、園城寺、高野山、天王寺などに遊学した。(「みょうほうへん」)


関連図書:
中尾堯『日蓮聖人伝と「ぬきなの御局」』
日朝(著)『元祖化導記』(1478年)

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