身延山の暮らし(その4)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第五章 身延山の暮らし(その4)

前回、前々回、五章その3その2では、日蓮が身延山で著した『撰時抄』『ほうおん『三大秘法抄』について解説された。今日のところ、五章その4では、ふたたび日蓮の身延山での暮らしぶりの話に戻る。その4では、弟子の往来や手紙での布教、熱原の法難について、そして弘安の役その影響までまとめることにする。


日蓮のいる身延山には、多くの信徒が訪ねてやってくるようになる。ここでは、健治二年(一二七六)の富木常忍の訪問ついて書かれている。

日蓮は文永一一年(一二七四)に身延山に入ってから、弘安五年(一二八二)に湯治のため常陸へ向かうまでの九年間、身延山から一歩も出なかった。そのため、手紙にょって、弟子や信徒たちへの布教活動を行っている。ここでは、富木常忍の妻(尼御前)への手紙を取り上げ、日蓮の手紙の特徴について解説されている。

日蓮といえば、殉教を恐れぬ、闘う法華行者のイメージが強い。とりわけ、国の柱として、幕府諌暁者の華々しいいメールで語られることが多いが、引用した手紙からは、病気の富木常忍の妻への細やかな心遣いが知られて興味深い。(抜粋)

弘安二年(一二七九)に駿河国富士郡あつはらで日蓮の門弟に対する弾圧があった。これを「熱原の法難」という。
日蓮は身延山に入って以来九年間外に出なかったが、その代わりに門弟たちが布教活動を行っていた。日蓮に代わって駿河国への布教に邁進したのは、日興であった(高木豊『日興とその門弟』)。その甲斐があり熱原の天台宗りゅうせんの僧、にっしゅうにちべんらも日興の弟子となっていた。それを快く思わなかった龍泉寺院主代のたいらのぎょうは、日修が熱原の百姓を伴ってかりろうぜき(他人の田畑の作物を刈り取り奪うこと)を行ったとして鎌倉幕府に訴えた。日修は、これは事実無根と逆に行智を訴えたが、護送された百姓のうち三人が斬首となった。(日修・日弁は身延山に身を寄せ難を逃れた。)
日蓮は、この事件を局地的な事件と見ずに、すべての日蓮宗徒への弾圧と捉え、弟子や門弟などに結束を呼び掛けた。

ここから、弘安の役とその影響について書かれている。
弘安四年(一二八一)に蒙古軍が再度襲来した。弘安の役では、日本側の体制も整っていて、元軍の上陸はほぼ防止された。そして日本軍の善戦と台風(神風)による被害によって、元軍は大敗を喫して逃げていった。

この弘安の役では、高齢(八一歳)のえいぞんも弟子と共に石清水八幡宮で蒙古退散祈禱を行った。

その際、叡尊の持仏である西大寺の愛染明王の矢が西を指して飛び立った、という。ちょうどその頃、神風が吹いて蒙古の多くの軍船が沈んだと宣伝された。叡尊らの祈禱によって起こった神風により、蒙古軍は退散さしたとされた。そうした神風による劇的な蒙古軍の退散により、叡尊・忍性らの律僧(真言宗も兼ねていたので、江戸時代以降には真言律宗)の祈禱力は大いに賞賛・宣伝されることになった。(抜粋)

日蓮は、蒙古軍の再度の来襲により「他国侵逼難」の予言が今度こそは当り、日本は元に滅ぼされと確信していた(ココ参照)。
ところが神風により元軍は海底に沈み、日蓮の予言は外れた。そして、叡尊・忍性らの祈禱力は以前にも増して評価されることとなった。
このことは、日蓮や日蓮門下にとって予想外のことであった。そして、元軍が退散したのは、思円上人(叡尊)の祈禱の大風が吹いたからだと京都でもてはやされていると聞いた日蓮は、これは日蓮一門にとっての重大事で、総じて日本国にとっても凶事だとして、門弟らに対して軽々しく言及を禁じた。

そして、このような状況を受けて、律僧えんきょうは、『しゃじゃせいかんはつしょう』を書いて、日蓮を批判した(池田令道「身延文庫蔵 円鏡撰『捨邪帰正観発抄』に関する考察」)。

結局、当時の人々は、叡尊の祈禱によって、神風が吹き、元船はじんになり、元軍は退散したと考え、その噂は、富木常忍のいた下総まで響き渡っていたのである。予言が外れたら真言が勝れていることを認めるとまで日蓮が挑発していた叡尊、忍性らの祈禱力の方が大いに評価されることになった。ここに日蓮は失意の状態に陥ったのである。そのうえ、身体的にも病魔におかされていた。(抜粋)

コメント

タイトルとURLをコピーしました