佐渡への配流(その1)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第四章 佐渡への配流(その1)

今日から第四章に入る。第三章では、蒙古の来襲という予言があたり、日蓮はますます他宗の批判を強めた。前回、第三章その3では、その他宗批判により行敏に訴えられ、佐渡への配流が決まった。
第四章は、佐渡での日蓮の様子と佐渡での『開目抄』『観心本尊抄』を中心とした日蓮の思想の深まりが書かれている。第三章は、3つに分けて、その1で佐渡への配流と佐渡での日常、その2で『開目抄』を、その3で『観心本尊抄』と曼荼羅本尊についてまとめることにしよう。


まず冒頭で著者は、日蓮の佐渡配流に至る経過(ココ参照)を次のようにまとめている。

繰り返しになるが、日蓮は、文永八年(一二七一)に佐渡へ配流される。同年七月八日に行敏より法論を挑まれ、ついで行敏より訴えられた。日蓮は鎌倉幕府によって同年九月一〇日に侍所へ召喚され、そこで所司であった平頼綱に尋問されたが、弁明しなかった。さらに、一二日に侍所から武士が日蓮を逮捕すべく彼の草庵へ派遣された際には、捕縛に来た平頼綱に、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺等の念仏者・禅僧らの寺塔を焼き払い、彼らの首を斬らなければ日本国は必ず滅ぶであろうと言った。(抜粋)

日蓮の捕縛には、多くの武装した武士がやってきた。これは、日蓮側が武器を蓄えていたことによる(ココ参照)。日蓮の自伝ともいえる「しゅじゅふるまいじょ」によると、このとき平頼綱の配下の武士が、日蓮の懐から『法華経』の第五巻を取り出し、日蓮の顔を三度叩いて、破り散らしたという。

『法華経』の第五巻には「勧持品」があり、末法において『法華経』を広める者が弾圧されることが書かれているが、日蓮はそれを体験したのである。(抜粋)

日蓮は、佐渡配流とのことで、守護のさらぎのぶときに預けられ、守護代、本間六郎左衛門しげつらの館に向かう予定であった。
しかし、鎌倉の片瀬の竜の口刑場で日蓮は首を斬られそうになる。この時、突然江の島の方から「光り物」が出現し、それに驚いた武士たちは殺すのを諦めたという(「種種御振舞御書」)。この「光り物」については、荒唐無稽な話という説や、流星であるという説があるが、著者は日蓮自身がそれを見たのではないかと考えている。
ここで著者は、日蓮が殺されなかったのは、この「光り物」に武士が驚いたのではなく、江の島一帯まで管轄下においていた忍性が日蓮を斬首しようとした武士の暴走を知り、それを制止した結果と考えている。忍性は戒律、特に不殺生を護持しているため、自分で手を下すことはもちろん、他者を使って殺害することも禁止されている。さらに、忍性は、日蓮の罪を許すように幕府に願ったとされる(『本朝高僧伝』)。また、日蓮も死罪にならなかった背景には忍性の動きがあったことを知っていた可能性がある(「頼基陳状」)。

佐渡流罪については、法難とされる。確かに日蓮(宗門)側からは法難であろうが、幕府の立場からは、正当な手続きを踏んだ裁判に基づく、あっこうの咎による流罪であった。(抜粋)

日蓮の布教活動によって鎌倉を中心に信者は増えていった。しかし、日蓮が逮捕されると、日蓮教団に対する弾圧が行われた。日朗をはじめとする門弟五人が逮捕され土老に入れられている。在家の信者の中には所領を没収された者もいた。また、日蓮逮捕の衝撃で、名越の尼など日蓮を捨てて改宗する有力な信者も出た。

「鎌倉においても私が御勘気にあった時、千人のうち九百九十九人が退転しました」(「にいあまぜんへん」)と日蓮が述べるほどの信者が改宗し、日蓮教団から離脱したのである。(抜粋)

日蓮は、文永八年(一二七一)に佐渡に向かった。その前日に、大型の料紙の中央に「南無妙法蓮華経」と題目を書き弟子に渡している。それは中央に題目があり、その下に署名と花押、そして両脇に不動明王と愛染明王の梵字が書かれている。筆でなく柳で書いたとされようの本尊」と呼ばれるものである。これは後の「曼荼羅本尊」と違い極めてシンプルなものである。

日蓮は佐渡に到着した後、塚原の三昧堂で過ごす。三昧堂での生活の中でもぶつぼうせんにち夫妻、入道夫妻のように日蓮に同調する者が現れ、日常の生活を支えた。日蓮はこのような配流生活の中で、著作活動に邁進している。そして『開目抄』『観心本尊抄』などの長文の著作を書いて自己の思想を深めていった。そして日蓮は文永一一年(一二七四)に罪を許され、鎌倉に戻った。

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