『それでも日本人は「戦争」を選んだ』加藤 陽子著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
4章 満州事変と日中戦争 事件を計画した主体(後半)
満州事変が起きたとき中国政府主席は蒋介石であった。彼は、日本は中国との二国間で交渉して事変の解決をはかりたいと考えているが、それではどんなに有利な条件で妥結しても、敵の共産党や広東派からは非難されることになる。そのため二国間の話し合いでなく国際連盟による仲裁を求めた。それには、次の二つの狙いがあった。
① 日本の侵略を国際世論によって牽制でき、後に予想される日中交渉の際にも有利に働く
② 連盟に訴えることにより、国民の関心を連盟に向けられ、国家防衛の責任を連盟に一部分担させることができる。
また、東三省は張学良が支配していて、蒋介石が率いる国民政府は、外交権以外は無かった。そのため張学良が独自に関東軍と停戦交渉を始めてしまえば手出しができず、それも連盟に訴える理由であると著者が解説している。
二国間で話し合うべきとする日本の主張と連盟が解決するべきとの中国の主張は、連盟理事会の手を焼かせていた。このころアメリカ発の世界大恐慌の結果、ドイツ政府とイギリスやフランス政府などが賠償金の支払いの遅れで対立していた。イギリスなどはこちらの問題に対処を優先したいので、関東軍や日本がよほどひどいことをしなければ、東アジアの秩序を日本に依拠(いきょ)したいと思っていた。
そのためリットンを委員長とする調査団は、以下のように日本の経済的権益に配慮した報告書をまとめた。
① 日本人に十分な割合を配慮した外国人顧問を配置すること
② 対日ボイコットを永久に停止すること
③ 日本人居住権・土地貸借券を全州に拡張すること(抜粋)
しかし、報告書には日本に不利とみられる条項もあった。まず、日本軍の軍事行動は、合法的な自衛の措置とは認めず。また、満州事変後に独立宣言をした「満州国」は、関東軍の力を背景に生み出された国家であり、満州地域における「中国的特性」を容認することが必要と書かれていた。これは満州が中国の主権下に有ることを認めることと一緒であった。日本の要求が経済的権益に留まっていれば、この報告書の処方箋でよかったのであるが、当時の陸軍の考え方は違っていたため日本に不利な報告書としてうつり新聞論調なども険悪な状況となる。
ここで、著者は大正デモクラシーを支えた知識人の吉野作造の嘆きを引用している。
吉野は、土地も狭く、資源にも恵まれない日本が、「土地及び資源の国際的均分」を主張するのは理屈として正しい、と先ず述べます。しかし、土地や資源の過不足の調整は、「強力なる国際組織の統制」によってなされるべきだ、「枯渇(こかつ)しても盗泉(とうせん)の水は飲むな」と子供の頃から日本人は教えられてきたはずではなかったのか、と嘆きます。(抜粋)
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