『それでも日本人は「戦争」を選んだ』加藤 陽子著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
4章 満州事変と日中戦争 当時の人々の意識
4章は満州事件と日中戦争について、この節で著者はまず満州事変と日中戦争の始まりを重要人物の横顔を交えて述べた後、当時の日本の人々の意識について解説する。
〇満州事変
満州事変は、一九三一年(昭和六)に関東軍参謀の石原莞爾(いしはらかんじ)らによって”起こされた“事件である。
関東軍は、南満鉄道の保護を任務としていたが、その線路の一部を自ら破壊してそれを中国側のしわざとして、満州の奉天(ほうてん)にあった張学良(ちょうがくりょう)の軍事的拠点などを占領した。
〇日中戦争
日中戦争は、一九三七年に偶発的な「盧溝橋事件」、つまり盧溝橋の北側河川敷で夜間演習を行っていた日本軍と中国軍の間で起こった小さな衝突をきっかけに起こった。
日本は北清事変の後の北京議定書により日本軍を駐屯させていた。そして、盧溝橋事件の前年に中国側との協議なしに人数を3倍に増強し、そしてその増強した軍隊の駐屯地を鉄道の分岐という重要地点の豊台に作った。そこには、中国軍の兵舎もあり、そのような危険な状況で夜間演習を行ったため中国軍と衝突してしまう。
次に著者は、竹内洋の『丸山眞男の時代』(中公新書)の中に書かれている、東京帝国大学で行われた学生への意識調査の記録などから当時の人々が満州事件や日中戦争をどう見ていたかを探る。
満州事変の2カ月前に行われたこの調査では、「満蒙に武力行使は正当なりや」と質問している。そして、これに88%の東大生が「然り」と答えている。序章(ココ参照)で取りあつかったように当時の日本人の感覚では、この戦いを「戦争」と思っていなかった。
さらに、当時大蔵省のエリート官僚だった毛里英於莬(もうりひでおと)が一九三八年に発表した論考では、
「『東亜一体』としての政治力」と題して、「日支事変」(当時の呼称)は、資本主義と共産主義の支配下にある世界に対して、日本などの「東亜」の国々が起こした「革命」なのだ、という解釈を展開していました。(抜粋)
と書かれていて、この論考から当時のエリート官僚などが、戦争を破壊と考えずより積極的な意味を見出していたことが分かる。
関連書:竹内 洋(著)『丸山眞男の時代』中央公論新社(中公新書)2005年
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