『それでも日本人は「戦争」を選んだ』加藤 陽子著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
序章 日本近現代史を考える 戦争から見る近代、その面白さ
序章は歴史家がどのような問いを立て対象を見るのかを解説し、歴史の面白さを伝えることを目的としている。
著者はまず2001年9月11日に起こった同時多発テロに対するアメリカの反応と1930年代の中国との戦争時の日本の論理との対称性について論じている。
同時多発テロは、「かつてない戦争」と呼ばれたがアメリカの感覚は、国同士の戦争というよりは、
国内の無法者が、なんの罪もない善意の市民を皆殺しにした事件であり、と言うことは、国家権力によって鎮圧されてもよい対象とみなされる。(抜粋)
というものだった。つまり、戦争の相手を打ち負かすというよりも国内の邪悪な犯罪者を取り締まるという感覚であったのではないかと。
そうなると、戦いの相手を、戦争の相手、当事者として認めないような感覚に陥っていくのではないでしょうか。(抜粋)
著者はこのような状態は1930年代後半の日本にもあったと言っている。
1937年の盧溝橋で起こった軍事衝突は瞬く間に日中の全面戦争に発展するが、当時の近衛文麿首相は、
「爾後、国民政府を相手にせず」
と声明をだしている。
また、当時の軍司令部は、これは戦争でなく「報償」であると発言している。報償とは、相手国が条約違反などをした時に、実力行使をして良いという考え方である。しかしその実力行使は相手の船を拿捕する程度の意味であるが、当時の軍部はこれを拡大解釈して戦闘行為の正当性を主張した。
日中戦争期の日本が、これは戦争ではないとして、戦いの相手を認めない感覚を持っていたことに気づいていただければよいのです。ある意味、二〇〇一年時点のアメリカと、一九三七年時点の日本とが同じ感覚で目の前の戦争を見ている。相手が悪いことをしたのだから武力行使をするのは当然で、しかもその武力行使を、あたかも警察が悪い人を取り締まるかのような感覚でとらえていたことがわかるでしょう。(抜粋)
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