風土記ーータブーと地名由来
山口 仲美 『日本語の古典』 より

Reading Journal 2nd

『日本語の古典』 山口 仲美 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

I 言葉に霊力が宿るーーー奈良時代   3 風土記ーータブーと地名由来

今日のところは奈良時代の3つ目、『風土記』である。これまで『古事記』、『日本書紀』つづき『風土記』で最後となりました。普通の古典の本だったら『万葉集』なども入るのだろうが、プロローグにあるように、本書では韻文作品は抜いてあるとのこと。
『風土記』テーマは「タブーと地名の由来」とある。では読み始めよう。


『風土記』

まず『風土記』の編集がなぜ為されたかについてである。
『風土記』は、和銅六年(七一三)の官命によって諸国で編集された報告書である。
そして、官命で求めたものは、次の5つである。

  1. 国名・群名・郷名に良い字の名前をつけよ
  2. 土地の産物を鉱物・植物・動物に分けて、詳細に記録せよ
  3. 土地の肥沃状況を記せ
  4. 山・川・原・野の由来を記せ
  5. 山・川・原・野の由来を記せ

ここで、朝廷の意図は、全国の状況を掌握すること、特に産物や土地の肥沃度を報告させ租税の対象をしっかりと把握することであった。
しかし、実際に提出された報告書(『風土記』)は、①と④と⑤についての報告が中心で、租税対象の②、③は簡略だったり省略されたりしたため、税の取り立てには役立たなかった。しかし、当時の伝説についての重要な記録となった。

『風土記』のうち現存するものは、
『出雲国風土記』(島根県)、『播磨国風土記』(兵庫県)、『豊後国風土記』(大分県)『肥前国風土記』(佐賀県・長崎県)、『常陸国風土記』(茨城県)の5つ

後の時代の書物に引用されて、あることが分かっているものは、
尾張国(愛知県)、伊勢国(三重県)、山城国(京都府)などの三六国となる。

肥前国風土記』松浦郡の話

ここでは、『肥前国風土記』からまつうらのこおりの部分を取り上げている。
この松浦郡の話は『古事記』『日本書紀』『万葉集』にも記載され、比較すると『風土記』の特色が鮮明となる。

地名の由来

まず地名の由来であるが、じんぐう皇后が、朝鮮半島の新羅を征伐しようと思い松浦郡にきたとき、神意を伺う鮎釣りした。その時に見事に鮎を釣りあげて、

皇后は言う、「いとめずしき物そ(=実にめずらしいものだ)」。だから、そこを「めずの国と」。それが訛って、「まつこおり」と説明する。(抜粋)

ここで、著者は言語学的には、松が美しい浦だったので「まつうら」。そしてその母音が脱落し「まつら」になったのでは、としたうえで

その方が大和朝廷との結びつきを強調できるし、自分たちの土地の権威付けにもなる。だから『風土記』に見られる地名の由来の説明には、天皇や皇后の行為や発言から解かれている場合が多々ある。(抜粋)

としている。

褶振の峰の伝説

次に松浦の郡に伝わる伝説である。
宣化天皇は、新羅や百済に攻め込まれていたみまを助けようと、大伴のひこを任那につかわした。その途中、狭手彦は絶世の美女、おとひめと出会い結婚する。しかし狭手彦は任那に向かわなければならない。狭手彦は姫子に大事な鏡を与えた。しかし、姫子はそれを松浦川に落としてしまう。

だからそこを「鏡のわたり」となづけた。(抜粋)

そして、狭手彦の出向を姫子は小高い山の上からみながら

ひれちて振りきき(=肩かけてある飾り布をとって振って招いた)」。まるで狭手彦の魂を呼び寄せるかのように。だから峰を「ひれふりの峰」と呼ぶ。(抜粋)

この話は『万葉集』にも書かれているとして、次の一首を紹介している。

つ人 まつうらひめ つまごひに 振りしより 負える山の名(=松浦佐用姫が夫を恋い慕って、領巾を振った時から名づけられたこの山の名ですよ)(『万葉集』八七一番歌)(抜粋)

松浦佐用姫=弟日姫子であり『万葉集』では、この後四首の歌が掲載されている。

蛇沼の伝説

『肥前国風土記』では、さらにこの後、弟日姫子の身に起こった伝説が書かれている。狭手彦が船出してから弟日姫子の寝室に狭手彦とよく似た男性が現れるようになる。しかし、狭手彦は任那に行っているために日本にいないはず。

彼女は、「することを得ず(=じっとしていられない)」。男の正体をつきとめようとしたのです。
彼女が、男が帰ってゆく時、「ひそかにうみちて、その人のすそ(=こっそりと麻をより合わせた長い糸を男の衣装の裾につけ)」た。(抜粋)

そしてその糸を追って男の正体を探る。

弟日姫子は、麻糸をたどって褶振の峰の頂にある沼のほとりにたどり着いた。と、そこにねたるへみ」がいるではないか。沼の底に沈んでいる体は人間だけど、頭は蛇。彼女を見ると、たちまち人の姿になって、語って言った。
篠原の おとひめの子そ さひとも ゐね寝てむしたや、いへにくださむ(=篠原の弟姫の子よ、一夜でも共寝をしてくれるようなことがあったら、その時あなたを家に帰してやろう)
男の正体は、半人半蛇の魔物だった。その寝姿を彼女は見てしまった。(抜粋)

彼女の侍女が両親にしらせ、大勢で峰の上に登ると、魔物の弟日姫子もそこにいず、沼の底に人の屍があった。それが弟日姫子の屍だといってすぐに引上げ峰の南に墓を作って収めた。
そしてその墓は、今でもそこにある。また、褶振の峰は唐津にある鏡山であり、その頂上付近に弟日姫子が誘い込まれたとされる沼、俗称「蛇沼」がある。

『肥前国風土記』のこの話には、「見るな寝姿」という伝説のパターンになり、タブーを犯した人間がどうなるかを教えている。
つまり、この章の表題「タブーと地名由来」となる。

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