『日本語の古典』 山口 仲美 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
IV 庶民が楽しむ言葉の世界ーーー江戸時代 26 雨月物語ーー怪異のリアリティ
今日のところは、上田秋成の『雨月物語』である。刊行は、安永五年(一七七六)江戸時代中期。『雨月物語』は、「白峰」、「菊花の約」、「浅茅が宿」、「夢応の鯉魚」、「仏法僧」、「吉備津の釜」、「蛇性の婬」、「青頭巾」、「貧福論」の九編の短編から成る怪奇物語で、どれも凝っていて裏に重要は意味を持っている。
『雨月物語』の短編の主人公たちは、いずれも、愛執の念、復讐の念、信義の念、などの激しい執着心をかかえており、それが怪奇事件を展開させているのだけれど、その事件は鮮烈で現実味を帯びて読者に迫ってくる。一体、どういう描かれているから、読者は迫真のリアリティを感じてしまうのか?これが、ココでのテーマです。(抜粋)
凝った振り仮名
著者は、『雨月物語』の日本語としての特徴について、振り仮名の効果をあげている。「生業」「同胞」「寿命」など現代ならば「セイギョウ」「ドウホウ」「ジュミョウ」と音読みするような語を『雨月物語』では、「なりはひ」「はらから」「ことぶき」と振り仮名をつけ、ちょっと古めかしい和語で読ませている。この振り仮名は、読み誤りを防ぐための振り仮名ではなく、本文にある漢字と複合させて新しい効果を生む出すためのものである。江戸時代には、このような凝った振り仮名の使用法があり、著者の上田秋成は、その効果を積極的に使っている。
「菊花の約」
この章で著者は、「菊花の約」を取り上げている。
播磨国(今の兵庫県)に丈部左門という儒学者が老母と暮らしていた。左門が知り合いの家に行くと、病気で苦しんでいた旅人がいた。左門は旅人を献身的に看病し、旅人は一命をとりとめた。旅人は、出雲国(島根県)富田の城主・塩冶掃部介に仕える赤穴宗右衛門。宗右衛門の留守の間に塩冶掃部介は、尼子経久に城を奪われ討ち死にしてしまう。そして宗右衛門が出雲に帰る途中、病に倒れ左門に助けられた。
そして、宗右衛門は左門に、はなり知れない恩義を感じ
「吾半世の命をもて必ず報いたてまつらん」(抜粋)
という。そして、二人は語り合っているうちに、何一つ心の合わぬことがなかった。そして、
「終に兄弟の盟をなす」。(抜粋)
宗右衛門が出雲に戻ると、かつて塩冶掃部介に仕えた人間も尼子経久に寝返っていた。宗右衛門も従兄弟の赤穴丹治に経久に仕えるようにすすめられた。宗右衛門は、経久を快く思わず出雲を去ろうとした。すると経久は丹治に命令し宗右衛門を幽閉する。
宗右衛門と左門が約束した再会の日が迫ってきた。幽閉された宗右衛門は、播磨に行くことが出来ない。そして約束の日、左門は酒肴を用意して宗右衛門を待った。
「おぼろなる黒影の中に人ありて、風の随来るをあやしと見れば赤穴宗右衛門なり」。(抜粋)
左門は、喜んで宗右衛門を誘い入れる。宗右衛門は、左門の言葉に
「只点頭て物をもいはである(=ただ頷くばかりで一言も口をきかない)」。(抜粋)
そして、酒や肴を進めても
「袖をもて面を掩ひその臭ひを嫌み放る」(抜粋)
左門が口をきいてくれないのを嘆くと、宗右衛門がようやく打ち明けた。
「吾は陽世の人にあらず、きたなき霊のかりに形を見えつるなり(=自分は実はこの世の人間ではない。穢れた魂が仮に形を現したものである)」。(抜粋)
左門はおどろいて
「更に夢ともおぼえ待らず」。(抜粋)
と強く否定する。しかし
宗右衛門は言う、「人は一日に千里を行くことはできない。でも、魂は一日千里を行けると古人の言葉を思い出し、自ら命を絶って亡魂となって、菊花の約を果たすために、陰風に乗って左門のもとにやってきた」と。「この心をあはれみ給へ」と言い残して、忽然と姿を消す。(抜粋)
左門は、悲しみの余り料理の皿の上に倒れ込んでしまった。老母が起きて左門が事情を話すが、信じない。
「まことに夢の正なきにあらず。兄長はここもとにあそありつれ(=ほんとに夢のように不確かな事ではないのです。兄上は確かにここにおられたのです)」(抜粋)
老母もようやく信じた。そして左門は宗右衛門を幽閉した丹治に敵打ちする決意を決め、隙をついて見事に討ち取った。城主の経久も
「兄弟真義の驚きをあわれみ(=義兄弟の信義の篤さに感じて)」(抜粋)
左門を追討させなかった。
武士と男色
著者はこの話を最初に読んだ時、約束を重んじる人間の一途さに感動したが、自分の命を絶ってまで約束を守るのは、異常じゃないかと疑問に思った。しかし、氏家幹人の『武士道とエロス』で男色の風習について学んで納得がいったと言っている。
そうか、左門と宗右衛門は、男同士の同性愛で結ばれていた仲だったんだ!(抜粋)
戦国時代から江戸時代初期には、男同士の同性愛は異常視されたどころか、逆に武士の華として賛美されていた。そのため一命をかけても守り抜くものと位置づけられていた。
だから、宗右衛門は命をかけて約束を守ろうとした。鬼気せまる約束の守り方には、男色という風習が背後にあったのです。(抜粋)
関連図書:氏家幹人(著)『武士道とエロス』、講談社(講談社現代新書)、1995年
コメント