『日本語の古典』 山口 仲美 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
III 乱世を生きた人は語るーーー鎌倉・室町時代 21 狂言ーー短い時間で笑いを作る
前回は、能の秘伝書『風姿花伝』であったが、今日のところは、ずばり!「狂言」。冒頭、著者の思い出から始まる。著者が初めて狂言を見たのは、中学二年生のときである。しかも中学校の課外授業なのに和泉流の狂言師の面々が現れ、演じて見せてくれたとのこと。その思い出は、著者を折あるごとに狂言を見るために能楽堂に足を運ばせた。どうやら、「狂言」に著者の思い入れがありそうである。今日のテーマは「短い時間で笑いをつくる」。では読み始めよう。
狂言は、南北朝の動乱時代に、能舞台の合間を飾る笑いを中心とした寸劇として始まった。室町時代を通して即興劇として流動し、かろうじて筋書きが書きとめられるのは、室町末期のことである。江戸時代には、台本もかかれ、大蔵流、和泉流、鷺流の三流派ができる(現在残っているのは、大蔵流と和泉流)。演目は大蔵流で二〇〇番ほど、和泉流で二五〇番ほどである。
狂言は、短い時間で演じられまた即興性を大切にしているため
- 登場人物は、二、三人の少数(打合せがいらない)
- 「笑い」がテーマの中心(短い時間で実現できる)
という工夫がある。ここでは、「狂言」の笑いがどのように作られていくかを追っている。
狂言の笑い
おかしな自己紹介
狂言は、能舞台で行われるため、場面を作る大道具はない。そして、時間も短い。そのため、登場人物は登場した時に、自ら自分が何者かを名のってしまう。
「遠国に隠れもない大名です(=私は、はるか遠い国にまで名の知れた大名である)」。(抜粋)
ここで、著者は、この“です”は、「で候」⇒「でさう」⇒「です」となったと解説している。
「これは都の町を走り回る、心も直にない者でざる(=私は、都の町を走り回る、不正直ものです)」。(抜粋)
さまざまな擬音と物まね
そして、大道具も無いので、場面を表わすために工夫が必要である。
たとえば、引き戸を開けるときは、動作と共に「サラサラサラ」と言い、反対に閉める時は、「サラサラサラパッタリ」と言葉で表す。
「鐘の音」という狂言では、主人に「付け金の値(=装飾ため付ける金の値段)」を聞いてくるように言いつけられた太郎冠者が、「つき鐘の音」と思い込み、寺々の鐘の音を聞きまわる。そして、五大堂の音は「グヮン」、寿福寺の音は「チーン」、極楽寺の音は「コーンコーン」、建長寺の音は「ジャンモンモンモンモン」と鐘の音を演じ分け、擬音語が笑いを誘発している。
「梟」や「鶏婿」などの演目では、梟の声や鶏の声の擬音語が活躍する。
笑いのためのネタ仕込み
笑いのためにネタを仕込んである演目もたくさんある。「末広がり」という演目では、主人が太郎冠者に「末広がり」を買って来るように言いつける。そして、「地紙よう、骨に磨きを当て、要下しっととして、戯絵ざっとしたを求めて来い(=貼ってある紙が良くて、骨には磨きがかけてあり、要の所はしっかりとしていて、しゃれた絵がさっとかいてあるのを求めて来い)」と注文を付ける。
しかし、太郎冠者は「末広がり」が何であるかしらない。このように失敗による笑いを引き起こす仕掛けである。
太郎冠者は、「末広がり屋はござらぬか」と大声で怒鳴って歩いていると、「すっぱ(=詐欺師)」に古傘を売りつけられてしまう。そして最後にすっぱは、良心がとがめたようで主人の機嫌の悪さを即刻直す囃子物を教えて帰す。
古傘を買って帰った太郎冠者は主人に怒られてしまう。しかし古傘を使ってすっぱに教わった囃子物を踊ると主人も機嫌を直して、一緒に踊って舞台から去っていく。
そして最後に著者は「狂言」について次のように評している。
笑いを作るための工夫が随所になされているのです。舞台装置のなさ、時間の短さという制約を逆手にとって、笑いを取るために手立てにしてしまうしたたかな即興劇。「おみごと」と叫んでしまいそうな日本発の笑劇です。(抜粋)
コメント