猫を愛した禅僧(後半)
田中 貴子 『猫の古典文学誌』 より

Reading Journal 2nd

『猫の日本文学誌』 田中 貴子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第五章 猫を愛した禅僧(後半)

今日のところは、第五章「猫を愛した禅僧」の後半である。前半では、禅僧はねずみ対策のために猫を飼い、そして大切にしたこと。また猫を題材にした詩が多いことなどが書かれていた。今日のところ後半では、有名な「南泉斬描」の公案についてである。そして最後に、ね・こらむ2 「犬に嚙まれた猫」がある。それでは、読み始めよう

南泉斬猫の公案と三島由紀夫

著者は、鉄山宗鈍の猫の死を悼んだ詩のところであえて二句目を挙げなかった(ココ参照)。二句目は、次のようになっている。

忽ち覚めては牡丹花の下でねむる 秋風昨夜南泉老ゆ(抜粋)

ここで猫と牡丹の組み合わせは中国独特なもので、牡丹下で眠る猫は、富貴と長寿のシンボル(ココ参照)であるが、ここでは安穏の意味が強い。

問題はこの詩の下の句である。下の句は、「昨夜秋風が吹いて南泉が老いてしまった」となっているが、ここで南泉なんせん」とは、禅宗で有名な中国の僧である。

禅宗には南泉斬描なんせんざんびょうという公案がある。
この公案は、公案を集めた『無門関』によると

ある日、南泉和尚が東西の堂(弟子たちが学んでいるところ)を通りかかると、両堂の僧が子猫一匹を間に言い争っている。そこで南泉は猫をつまみ上げると「この猫についてお前達何か言うてみよ。さもなくば猫を斬ってしまうぞ」と言った。両堂の弟子たちは何も言うことができなかった。南泉はそれで、持っていた鎌で猫を斬って捨てた。(抜粋)

そして、この話には後日談がある。

その夜、南泉の高弟である趙州じようしゆうが帰ってきた。そこで今日の話をすると、趙州はだまってはいていた靴を頭の上に載せて部屋を出ていった。これを見て南泉は「趙州があの場にいたならば、あの猫を救うことができたのに」と悔やんだ。(抜粋)

この二つの公案について、松原泰道は『公案夜話こうあんやわ』(すずき出版、1990年)で次のように言っている。

思えば、私たちはこの猫騒動のようにつねに自他の対立で心身をすり減らしているのです。そして所有欲に明け暮れ追いまわされているのです。南泉は、あえて不殺生の戒を犯して猫を斬ることによって、自他の対立や欲への執着を切断したのです。したがって猫はたんなる猫でなく、人間の持つ一切の執着や自他の対立の表象です。
そして、趙州が靴を頭に載せる行為については、山田無文師の言葉を引用してこのように解説している。
いつも脚に踏みつけておるものを、頭の上に載せただけのことである。常に踏みにじられておるもの、虐げられておるもの、泥にまみれておるものを頭に頂かれたのだ。(中略)わらじではない、一切衆生を頭の上に載せておる。全宇宙を頭の上に載せておるのだ。(中略)南泉が猫を斬ったのは、人間の所有欲をブッタ斬ったのだ。趙州が草鞋を頭上に載せたのは、身体も命も財産もみなさんのものです。お預かりしたものですよ、と載せたのだ。(抜粋)

ここで冒頭の鉄山宗鈍の詩の二句目に戻ると、「秋風昨夜南泉老ゆ」は、南泉は老いてしまったので、猫に鎌はもう届かない、ということになる。

この公案は、古来より有名で『無門関』の注釈書にもさまざまな説が見える。そしてさらに、近代文学の研究者の間でもかなり知られていた。三島由紀夫は『金閣寺』の中でこの公案を登場させている。三島は『作家の猫』という写真集(『作家の猫』平凡社 2006年)で、書斎で猫抱いている姿が写されているそうで、著者は、どうやら猫派である、と言っている。

最後に著者はこの公案に対する三島の解釈を載せている。

南泉和尚は猫を切ったのは、自我の迷妄を断ち、妄念妄想の根源を断ったのである。非情の実践によって、猫の首を斬り、一切の矛盾、対立、自他の確執を断ったのである。これを殺人刀と呼ぶなら、趙州のそれは活人剣である。泥にまみれ、人にさげすまれると履というものを、限りない寛容によって頭上にいただき、菩薩道を実践したのである。(『金閣寺』 新潮文庫、二〇〇三年)(抜粋)

関連図書:
三島由紀夫(著)『金閣寺』、新潮社(新潮文庫)、2003年
平凡社編集部(編)『作家の猫』、平凡社(コロナ・ブックス)、2006年

 ね・こらむ2 犬に噛まれた猫

現代では、よほどのことがないと犬は猫を襲わないが、昔は野犬がうようよしていたため、犬に大切な猫を襲われたという記事が出てくる。ここでは、そのような例を二つ紹介されている。

一例目は、藤原定家の『明月記』である。承元元年(一二〇七)七月四日、定家が帰宅すると、三年前から飼っていた猫が犬に殺されていた。猫は、隣との塀がほとんど無くなっていたところから侵入した野犬に殺された。

定家がわざわざ日記に記しているのは、猫の死に様が悲惨だったからであろう。どんな動物でも、殺されてはたまらない。さほど猫好きではなかった定家の心を、この猫の死がゆさぶったのである。(抜粋)

二例目は、伏見宮貞成ふしみのみやさだふさ親王の『看聞御記かんもんぎよぎ』という日記である。応永おうえい二十六年(一四一九)四月十五日の条に「飼い猫が先日犬に食われ、今日死んだ。かわいそうだったので、ここに記した」と冒頭にメモ書きのように記してあった。

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