[読書日誌]『なぜ古典を読むのか』
イタロ・カルヴァーノ 著

Reading Journal 2nd

『なぜ古典を読むのか』 イタロ・カルヴァーノ、みすず書房、1997年
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

なぜ古典を読むのか

本棚を見ていると、イタロ・カルヴァーノ『なぜ古典を読むのか』を見つけた。この本、すご~~く、長い間本段にあるなぁ、と思ったので、取り出してみた。

いつ買ったか思い出せないが初版は1997年、かれこれ30年弱前の本ですね。(ただ、河出文庫から2012年に再版され、まだ売っているから本として、まだまだ古くなっていないかな?)

訳者のあとがきを読むと、この本に集められた三十二編の文章の多くは、二十世紀後半に名を馳せた作家イタロ・カルヴァーノが、エイナウディ出版社の編集者だったころに文学叢書の「まえがき」として書かれたものであるという。

ぱらぱらとめくってみると、なかなか面白そうなので、読んでみることにした。

さて、今日のところは、本書の題名になっている「なぜ古典を読むのか」である。


カルヴァーノはまず「古典」の定義を示し、そしてその定義を発展させながら話を進める。

① 古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である。

古典についての考察を、著者はこの定義から始める。

ここで「読んでいる」ではなく「読み返している」というのは、有名な本をまだ読んでいなかったことを告白するのを恥ずかしいので隠しておくための、小さな偽善である。しかし、個人の「教養」として読む本の数がどんなに多くても、その人がまだ読んでいない本の数は、つねに読んだ数よりもはるかに多い。

ミッシェル・ピュトールがアメリカの教壇で教壇に立ったとき、エミール・ゾラについてあまり質問されるので、どうとう業を煮やして、それまで読んだことのなかったルーゴン・マッカール叢書をはじめから終わりまで読んだという。しかし、じっさいに読んでみると、それまで彼が考えていたのとはたいへんな違いで、まさに目をみはるような神話的、宇宙的な一大系図だったという。こうしてピュトールはあのすばらしいゾラ論を書いた。(抜粋)

ある古典を壮年または老年になってはじめて読むのは、比類ない愉しみをもたらす。それは、若いときに読むのとは異なった種類の愉しみである。古典はおとなになってから読むと、若いときとくらべて、より多くの細部や話の段階を味わうことができる。

② 古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資産だ。

若いときの読書は、忍耐力が足りなかったり、気が散ったり、どう読めばわからなかったり、人生経験が足りなかったりするため、実りのないこともある。しかし若いときに読んだその本を、全く覚えていないにしても、いつのまにか自分のメカニズムになっていて役に立っている。

そのままのかたちでは記憶に残らないで、種を蒔いていくのが、この種の作品のとくべつな力にほかならない。(抜粋)

③ 古典とは、忘れられないものとしてはっきり記憶に残るときも、記憶の襞のなかで、集団に属する無意識、あるいは個人の無意識などという擬態をよそおって潜んでいるときも、これを読むものにとくべつな影響をおよぼす書物をいう。

そのため、おとなになってからも、若いときに読んだ本のなかでもっとも重要なものを、もう一度読んでみることも大切だ。たとえ本が昔のままでも、読むほうは確実に変化している。ここで「読む」という動詞と「読み返す」という動詞は、どちらを使ってもどうということはない。

④ 古典とは、最初に読んだときとおなじく、読み返すごとにそれを読むことが発見である書物である。

⑤ 古典とは、初めて読むときも、ほんとうは読み返しているのだ。

⑥ 古典とはいつまでも意味の伝達を止めることがない本である。

⑦ 古典とは、私たちが読むまえにこれを読んだ人たちの足跡をとどめて私たちのもとにとどく本であり、背後にはこれらの本が通り抜けてきたある文化、あるいは複数の文化の(簡単にいえば、言葉づかいとか習慣のなかに)足跡をとどめている書物だ。

古い時代の古典も現代の古典も原典を読む前にも私たちは、いろいろな事柄を知っている。

古典は、読んだとき、それについて自分がそれまでに抱いていたイメージとあまりにかけ離れているので、びっくりする。そんな書物である。(抜粋)

そして古典を読むときは、できるだけその本について書かれている文献目録や脚注、解釈を読まないで、原典だけを直接読むべきである。これは、いくら書いても書き足りないほど重要である。

学校では、前書きや研究資料、参考文献などが重要視されるが、それはむしろ本文が言おうとしていることを隠蔽するための煙幕みたいなものである。

⑧ 古典とは、その作品自体にたいする批評的言説というこまかいほこりをたてつづけるが、それをまた、しぜんに、たえず払いのける力をそなえた書物である。

古典とは私たちが知らなかったことを教えてくれる本であるとは限らない。私たちがずっとまえから知っていたことを最初に言ったのが著者であることに気づくことがある。

⑨ 古典とは、人から聞いたりそれについて読んだりして、知りつくしているつもりになっていても、いざ自分でよんでみると、あたらしい、予測しなかった、それまでだれにも読まれたことのない作品に思える本である。

このようなことは、古典が古典として読まれたとき、すなわち、読む人と本の間に個別のつながりができた時だけに限られる。古典は義務で読むのではなく好きで読むものである。

利害をはなれた読書のなかでこそ、私たちは「自分だけ」のものになる本に出合うことができる。(抜粋)

⑩ 古典とは古代の護符に似て、全宇宙に匹敵する様相をもつ本である。

このような高邁で厳しい古典の定義に対して、そのアンチテーゼのような関係の本、つまりその本を反論したい批判したいという欲求が抑えきれない本もある。

⑪ 「自分だけ」の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨に、もしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある。

古典は、古代のものでも近現代のものでも、反響効果をもちながら、文化の継続性のなかで、すでにひとつの場を獲得したものという特徴がある。

⑫ 古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえでその本を読むと、たちまちそれが(古典の)系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる。

ここで著者は、古典を読むことと、古典でないすべての他のものの読書との関連性について書かずにはいられないと言っている。

時事問題にかかわる印刷物は、月並みで不快なものであっても、とにかく自分がどこに立っているかを、わからせてくれる。

古典を読んで理解するためには、自分が「どこに」いてそれを読んでいるかを明確にする必要がある。 ‥‥中略‥‥古典をもっとも有効に読む人間は、同時に時事問題を論ずる書物を適宜に併せ読むことを知る人間だと私がいうのはこういう理由からである。(抜粋)

理想をいえば、時事問題その他は、窓のそとの騒音ぐらいに思えるのが一番良い。

⑬ 時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧騒はあくまでも必要なのだ。

⑭ もっとも相容れない種類の時事問題がすべてを覆っているときでさえ、BGMのようにささやきつづけるのが、古典だ。

古典を読むことは、私たちの生活リズムに相容れないのが現状で、必要な古典のカタログさえ作れない折衷主義なわれわれの文化と矛盾しているように見える。

あたらしい本がさまざまな文化や文学のなかで殖え続けている現代では、自分の理想の図書館を建てれば、その半分をこれまで読んだ、いつまでも関係が保たれる本を、そしてもう半分をこれから読もうと考えている信頼できる本が入るはずである。

最後に著者は、古典について次のように言っている。

私たちが古典を読むのは、それがなにかに「役立つから」ではない、ということ。私たちが古典を読まなければならない理由はただひとつしかない。それは読まないより、読んだ方がいいから、だ。(抜粋)

関連図書:イタノ・カルヴァーノ(著)『なぜ古典を読むのか』、河出書房新社(河出文庫)、2012年


目次 

なぜ古典を読むのか [第1回]
オデュッセイアのなかのオデュッセイア
クセノポン『アナバシス』
オウィディウスと普遍的つながり
天、人間、ゾウ
『狂乱のオルランド』の構造
八行詩節の小さなアンソロジー
ガリレオの「自然は書物である」
月世界のシラノ・ド・ベルジュラック
『ロビンソン・クルーソー』、商人が守るべき特性についての帳簿
『カンディード』あるいは速度について
ドニ・ディドロ『運命論者ジャック』
スタンダールにおける微細な認識の方法について
『パルムの僧院』入門 はじめて読む人たちのために
バルザックのなかの小説都市
チャールズ・ディケンズ『我らが共通の友』
ギュスタヴ・フローベル『三つの物語』
レフ・トルストイ『ふたりの軽騎兵』
マーク・トウェイン『ハドレイバーグを堕落させた男』
ヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー』
ロバート・ルイス・スティーヴンソン『砂丘のあずま屋』
コンラッドの船長たち
パステルナークと革命
世界はチョウセンアザミ
ガッタ『メルラーナ街の厄介きわまる件のごたごた』
エウジェニオ・モンターレ「たぶんある朝、歩いて」
モンターレの岩礁
ヘミングウェイと私たち
フランシス・ポンジュ
ホルム・ルイス・ボルヘス
レーモン・クノーの哲学
パヴェーゼと人身供犠
編者覚え書き
訳者あとがき

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