『「モディ化」するインド』湊 一樹 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第2章 「カリスマ」の登場(その2)
今日のところは、第2章の“その2”である。“その1”では、モディの生い立ちから、結婚の拒否と放浪までであった。“その2”では、モディが放浪後に権力の階段を駆け上がりグジャラート州の知事になるまで、そして、知事になってすぐに起こった「グジャラート暴動」についてまとめる。さらに“その3”は、モディが、州首相としてグジャラート暴動での責任をどのように回避し権力を固めたかについてである。では、読み始めよう。
権力の階段
RSS専従活動家
放浪の旅を終えたモディは、実家に帰った翌日にふたたび家族のもとを離れ、グジャラート州の最大都市アルマダバードに向かう。そして、しばらくすると、RSS(ヒンドゥー至上主義団体の民族奉仕団)のグジャラート州本部で雑用係として働き出した。そして、順調に仕事をこなし、RSSの幹部候補生向け養成プログラムに参加する機会を得た。その後、「プラチャーラク」(「宣伝・宣教する人」の意)と呼ばれる専従活動家となる。
当時の政治状況(インド政治の転換点)
モディがRSSの一員として活動を始めた一九七〇年代中ごろは、インド政治の転換点であった。
インディラ・ガンジー政権は、一九七五年に非常事態宣言を発令し、市民権が停止する事態となる。そして野党指導者や活動家などの反対派を拘束した。その中にRSSの主要メンバーも多く含まれていた。その時、モディは地下に潜り、積極的に反政府運動をした。
非常事態宣言から一年半後、インディラは連邦議会を解散し、総選挙で国民会議派が大敗を逸して、BJPの前身のインド大衆連盟(BJS)などが参加してできたジャナータ党が政権を誕生する。
しかし、ジャナータ党は、内部対立で崩壊し、一九八〇年に行われた総選挙うで、会議派が勝利し、インディラが首相に返り咲いた。
そして非常事態の終了後、モディはRSS内でスピード昇進を重ねていた。そして一九八七年にグジャラート州のBJPを指導する責任者としてRSSからBJPインド大衆連盟インド大衆連盟)に派遣され、政治の表舞台に登場する。
グジャラート州の首相になるまで
グジャラート州では、長年にわたって会議派が政権を握ってきたが、モディがBJPの州組織を指導してからは、BJPが議席を伸ばし一九九五年に初めて州政権を樹立する。この時、モディよりも二〇歳年上のジェーシュバーイー・パテールが州の首相に就任したが、モディは陰の実力者として認識されるようになった。
ところが、パテール政権は、党内派閥争いにより一年余りで崩壊し、モディは責任をとってグジャラート州からデリー本部に異動になる。そして一九九八年にBJPを中心とした連立政権が成立するとモディは全国幹事長(組織担当)に昇進する。
そのころグジャラート州では、パテールが首相として再登板したが、BJPは各種の選挙で敗北を重ね。さらに二〇〇一年のグジャラート州カッチ地方の大地震への対応が遅れたため、パテール政権が危機に瀕していた。すると党本部は支持を失ったパテールに代わって、モディを州首相に任命した。
モディはグジャラートからデリーに異動になって以降、党中央に自らを熱心に売り込んでいたという。その背景についてある党関係者は、「グジャラート州の党組織が自分を州首相に選ぶことはないだろうとモディは知っていた」「モディがどれほどの争いを引き起こす、独善的な人物であるかグジャラートの党指導者は知っていたので、党中央からトップダウンで州首相に就任するしか道はなかった」と説明している。(抜粋)
モディは、類まれな才覚と勤勉さによって権力の階段を駆け上がっていた。一方、モディは、組織を重んじ規律と協働意識を大切にするRSSの中にあって、人の意見を聞かず独断専行で物事を進める傾向があった。
グジャラート暴動
モディのグジャラート州首相就任
RSSの専有活動家だった人物が州政府のトップに立つのは、インドではこれが初めてであった。また、M.K.ガンディーの出身地であるグジャラート州で、ガンディーの暗殺者が所属していた団体から州首相が誕生したという意味でも、そして、その後のインド政治の方向性を大きく変える端緒となったという意味でも、モディの州首相就任は歴史的出来事だった。(抜粋)
二〇〇一年に、モディはグジャラート州首相に就任したが、政治状況は芳しくなかった。グジャラート州の党組織のなかには非協力的な指導者や勢力も存在した。こうした厳しい状況を一気にひっくり返したのがグジャラート暴動である。この暴動は、二〇〇二年に起こった。ヒンドゥー教徒が犠牲となった列車炎上事故を口実にヒンドゥー至上主義者によるイスラム教徒への攻撃である。
グジャラート暴動の状況と背景
ここで著者は、このグジャラート暴動の状況と背景を、イギリスの調査団の報告書に沿って説明する。
まず、報告書の冒頭にある概観は、
1.報道をはるかに超える規模の暴力である。少なくとも二〇〇〇人が殺害された。イスラム教徒の女性が広範かつ組織的にレイプされた。一三万八〇〇〇人が避難民となっている。[アツマダーバードの]ヒンドゥー教徒の多く住む地域またはヒンドゥー教徒とイスラム教徒の混在地域では、イスラム教徒の店舗だけが狙い撃ちにされ、すべて破壊された。
2.暴力行為は---おそらく事前に---計画されたものであり、政治的動機にもとづいている。その目的は、ヒンドゥー教徒が多く住む地域からイスラム教徒を一掃することである。州政府による保護のもと、VHP(ヒンドゥー至上主義組織)が暴動を主導した。モディが州首相の地位に留まる限り、[宗教コミュニティー間の]和解は不可能である。(抜粋)
と書かれている。
この暴動は、ヒンドゥー至上主義勢力が入念に準備し、州政府がさまざまな形で支援している。モディ州首相は、暴動の始まる数日前に州警察幹部に、暴動には手を出さないように指示している。
また、この暴動は、ゴードラでの列車への攻撃が、格好の口実となった。この悲劇を「ヒンドゥー教徒がイスラム教徒によって攻撃されている」とヒンドゥー至上主義者と州政府が一体となって煽り、暴動に発展した。
この時、モディは、「一つのコミュニティーによる、一方的な暴力テロ行為」と発言し、イスラム教徒のテロであるとした。州政府は人々に冷静を保つように呼びかけるどころか、イスラム教徒コミュニティー全体への敵愾心を掻き立てることを意図した発言や鼓動を繰り返した。
イギリス政府の報告書はヒンドゥー至上主義勢力による暴力行為の直接の責任がモディであると主張している。さらに、モディの動機は単なる政治的打算ではなく、ヒンドゥー至上主義のイデオロギーにも起因すると指摘している。(抜粋)
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