理想郷「イーハトーブ」の創造(前半)
北川前肇 『宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる』 より

Reading Journal 2nd

『宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる』 北川前肇 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第5回 理想郷「イーハトーブ」の創造(前半)

宮沢賢治の初の童話集『注文の多い料理店』の副題は、「イーハトヴ童話」である。このイーハトーブ(イーハトヴ)は、賢治が夢見た理想郷であり、賢治はその実現のために後半生を捧げた。第5回 “理想郷「イーハトーブ」の創造”では、そのような賢治の活動を追っている。第5回は前半で盛岡高等農林学校時代から花巻(稗貫)農学校での教師時代までをまとめ、そして後半では、教師を辞め農民として生きた賢治の活動をまとめることにする。


賢治は、作品の中で故郷をモデルとした地を「イーハトーブ」あるいは、イーハトーヴ、イーハトブ、イーハトーボなどと呼んでいる。この意味は、人間が生きる場所として、夢のような豊かな理想郷ということである。

また、二十九歳の賢治は、花巻農学校を退職し、理想郷を花巻の地に実現するために、じんきょうかいを設立した。

みずから農民(地人)になり、地元の若い農民たちに農学の知識と芸術論を無償で教え、花巻の地に「農民芸術」を花開かせようとしたのです。(抜粋)

賢治は、農業だけでなく「芸術」をともなってこし、農村が豊かになると考えていた。
著者は、この「農民芸術」とは何か、どうして教師を辞めてまで農民になろうとしたのかを、賢治の歩みに沿ってたずねてみたいとしている。

高等農林学校時代から花巻農学校の教師時代

宮沢賢治は、十八歳で盛岡高等農林学校に入学している。今日の大学に相当するが、日本初の高等農林学校であり、日本全国から優秀な学生があつまり、教授陣もビタミンの発見で有名な鈴木梅太郎などの当代一流の教授陣を揃えていた。

宮沢賢治は、せきとよろう教授に師事し、土壌学を専門にして学ぶ。関教授は気難しいことで知られていたが、勉学に熱心な賢治を信頼し強い師弟関係を結んでいた。農業科で三年間さらに研究生として二年間学んだ賢治に、関教授は助教授の職を勧めたが、賢治は父・政次郎と相談しそれを辞退して、父の仕事を手伝う。

この後、第2回第4回にあるように、賢治の東京への家出があり、妹・トシの発病を機に花巻に帰郷する。
そして、帰郷後に花巻(稗貫)農学校に教師として勤め始めた。農学校で賢治は、科学、代数、作物、英語、土壌、肥料、虫害などを担当する。そして、農業実習においても誰よりもよく働き、皆が嫌がる作業を率先してやるような熱心な指導を行った。また、この時期に花巻助詞高等学校の音楽教師・藤原とうと親しくなり、ベートーベンやチャイコフスキー、ショパンのレコードを夢中で聞くようになった。

この花巻農学校の教師時代に、妹・トシの死に遭遇し、『春と修羅』『注文の多い料理店』の出版もなされる。

充実した教員生活を送っていたかのように見える賢治ですが、彼の胸中には別の思いが湧き上がっていました。
・・・・中略・・・・・
「ほんとうの百姓」になり、農民劇団をつくりたい。つまり、みずから農民となって、農作物はもちろんのこと、その生活の中で、自分の求める音楽、美術、演劇、宗教などの心を豊かにする芸術を求めたい。まさに「農民芸術」を実践したいという思いを、賢治は強く抱いていたのです。(抜粋)

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