「斉桓・晋文」(春秋五覇)(その1)
井波 律子『故事成句でたどる楽しい中国史』 より

Reading Journal 2nd

『故事成句でたどる楽しい中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二章 「呉越同舟」 — 乱世の生きざま 1 春秋五覇(その1)

今日から、「第二章 呉越同舟」に入る。周王朝は、平王が西周遷都したのを境に、東周になる。しかし、東周の政治基盤は弱く、各地に依拠する諸兵が勢力を伸ばした。そして諸侯が入り乱れる春秋しゆんじゆう戦国時代へ突入する。そして彼らは東周王朝を保護するという建前で、諸侯を集めて会盟かいめいを開いた。そこで諸侯同盟のリーダーとなった「覇者はしゃ」が五名いる。それを「春秋五覇しゆんじゆうごは」という(この五人の選び方は諸説あるとのこと)。

今日のところは、第二章第1節 「1 春秋五覇」である。第1節については、3回に分けてまとめる。さて読み始めよう。

「管鮑の交わり」管仲と鮑叔

春秋五覇の筆頭はせいかんである。桓公、本名小白しょうはくは、斉の君主じよう公の弟である。この襄公は、性格異常者であったため、小白と異母兄弟のきゆうは、それぞれ糾はへ小白はきよへ逃げた。そして、この糾を補佐したのが、管仲かんちゆう召忽しようこつで、小白を補佐したのが鮑叔ほうしゅくでした。

やがて、斉に内乱が起き、その時いち早く小白は、帰国し即位した。そして糾を支援した魯の軍勢を打ち破る。糾は、桓公(小白)の報復を恐れた魯により殺害された。

この時、糾を補佐した召忽は自決したが、管仲は桓公に降伏する。管仲を殺そうとする桓公に対して、鮑叔は、天下の覇者となるには、有能な管仲の存在が必要だと説き、桓公もこれを受け入れた。

こうして斉の政治・軍事の責任者になった管仲は、桓公を覇者におしあげる最大の功労者となるのです。(抜粋)

この管仲と鮑叔は、若いころから親友であった。管仲は、昔の友情を忘れない鮑叔のおかげで命拾いすることができ、斉政権の最高首脳にまで上り詰めた。このような管仲と鮑叔の友人関係を指して、管鮑かんぽうまじわり」と呼ぶ。

有能な管仲の補佐のおかげで斉の桓公は春秋最初の覇者となる。この管仲を孔子は『論語』において賞賛している。

管仲は、桓公の補佐役を務めて四十一年で、この世を去った。その後、桓公は急速に衰え、管仲の死の二年後に、後継をめぐる争いの中で死去した。

「斉桓・晋文」斉の桓公と晋の文王

せいの桓公につづいて諸侯同盟のリーダーになったのは、しんぶん、本名重耳ちょうじであった。重耳の父、けん公は、西方異民族を攻撃した際に、驪姫りきという美女を連れて帰り側室にした。そして、献公には、すでに皇太子・申生しんせい、重耳、夷吾いごという三人の子がいたが、驪姫は自分の息子、奚斉けいせいを皇太子にしようとした。そして、申生は自害に追いこまれ。重耳はてきへ、夷吾はりように亡命する。

献公が無くなると内乱が起き、夷吾が帰国して、即位する。これがけい公である。恵公は、兄の重耳を恐れ暗殺しようとしたため、重耳は狄を離れ斉に身を寄せ、斉の公女と結婚する。

重耳は、権力欲が希薄だったせいもあって、安楽な生活にれ、晋への帰国の意思を失っていました。ごうやした臣下グループはむりやり重耳を斉から連れ出し、最終的には晋への帰国をめざす諸国行脚あんぎやに出発します。(抜粋)

重耳が大国に到着したとき、楚のせい王は、尋ねた。

「帰国されたら、何をもって私に報いてくださるかな」。すると、重耳は、やむをえず「君王と平野や湿地で戦いを交えることになった場合、(開戦の前に)わが方の軍勢を三舎さんしゃ(九〇里。春秋時代の一里は四〇五メートル)退却させます」と答えました。(抜粋)

重耳が楚に滞在している時に、晋の恵公が病気になったため人質として秦にいた息子の子圉しぎよが秦を脱出した。そのため秦のぼく公は、対抗措置として重耳を呼び寄せ娘と結婚させて手厚く遇した。そして、恵公が死去し子圉、かい公が即位すると、穆公は、重耳を帰国させる。重耳は帰国し即位し、懐公を殺して晋を支配下におさめた。

こうして逃亡者重耳は晋の文公に変身したのです。ときに重耳六十二歳。(抜粋)

この文公は名君であり、晋の国家基盤を固め頭角を現す。そして楚が北に向って軍勢を勧め、そうの首都を包囲した時、宋の救援要請を受けた文公は出兵する。そして、城濮じょうぼくで楚軍と対決した。

開戦に先立ち、文公は自軍を大幅に後退させました。不遇時代、楚の成王とかわした「三舎」を守ったのです。(抜粋)

結局、楚を撃破し楚の北進を阻止することに成功する。その後、文公は諸国の君主を集め、斉の桓公に次いで、春秋時代の覇者となる。

覇者として中原をまとめること五年、紀元前六二八年に晋の文公は死去します。ときに七十二歳。十九年にわたる亡命生活をへて、六十歳をこえた身で君主の座につき、ついに大覇者となった晋の文公こそ、まさに奇跡の人というべきでしょう。(抜粋)

斉の桓公と晋の文公は、東周王朝をしのぐ実力を有しながら、あくまで天子を輔佐し天下の安定に努める姿勢を見せた。これを斉桓せいかん晋文しんぶんと呼び、長らく人々の賞賛と憧憬しようけいの対象となる。

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