「周の粟を食はまず」(亡国の君主たち)(後半)
井波 律子『故事成句でたどる楽しい中国史』 より

Reading Journal 2nd

『故事成句でたどる楽しい中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 「覆水盆に返らず」 — 名君と暴君の時代 2 亡国の君主たち(後半)

今日のところは、「第1章 覆水盆に返らず」の“2 亡国の君主たち”の”後半“である。”前半“は、夏王朝の滅亡と、殷王朝の話、さらに後に殷を倒す周の話であった。今日のところは”後半“では、殷の滅亡と周王朝の成立、そしてその周王朝が徐々に衰退し、乱世の春秋戦国時代に入るまでである。それでは読み始めよう。

「周の粟を食はまず」伯夷・叔斉の逸話

西伯は周の君主を五十年務め世を去る。そして息子のはつ、後の王が後継の座に就いた。太公望呂尚、弟の周公旦しゅうこうたんが補佐役となった。

そして、武王は諸侯の同盟軍を率いて暴君紂を征伐しようとした。

いざ出陣というとき、伯夷はくい叔斉しゅくせいという二人の人物が、武王の行く手をさえぎり、「父君が亡くなられ、葬式もすまさずに戦争をするのは孝行こうこうの道にはずれます。臣下の身で主君(紂を指す)を征伐するのは仁義じんぎにもとります」と制止します。(抜粋)

しかし、武王は軍勢を動かし、紂を撃破し殷を滅ぼした。

そして、伯夷・叔斉は、周王朝が成立すると、「しゅうぞくまず(周の臣下となり俸禄ほうろくを受けることを拒否するという意味)」、といいわらびを採って飢えをしのぐが、ついに餓死がししてしまう。餓死の寸前に次の採薇さいびの歌」を作った。

「われわれはかの西山(首陽山)に登って、薇を采る。武王は暴力をもって暴力的な紂にとってかわり、自分の過ちを悟らない・・・・」(抜粋)

後に司馬遷は、この伯夷・叔斉の高潔な生き方を高く評価し『史記』の筆頭に「伯夷列伝」をおいている。

以来、時の権力に迎合しない生き方を志向する人々にとって、周の粟を食まなかった伯夷・叔斉は極限的な模範となり続けています。(抜粋)

周公旦と儒家の理想

武王は殷を滅ぼし周王朝を立ててほどなく病死する。そして、幼少のしょうせい王が即位した。即位したもののまだ成王は幼少のため、叔父の周公旦しゅうこうたんが国事を取り仕切った。彼はもう一人の弟、召公しょうこうとともに殷の残存勢力を滅ぼし、周の支配を確固たるものにした。そして、東方に第二の首都をつくり、もともとの周の首都、鎬京こうけい宗周そうしゅうとし、第二の首都を成周せいしゅうとした。さらに周に「封建ほうけん制」をしき「礼制」を定め、周の政治的・文化的制度を創設した。そして、周公旦は成王が成長するとまたもとに臣下の地位に戻った。

孔子は、周初の輝かしい政治・文化の創始者周公旦の崇拝者であった。そして、

郁郁乎いくいくことしてぶんなるかなれは周に従わん(ああ盛んなる文化よ。私は周の文化に従おう)」(抜粋)

はなはだしいかな、が衰えや。久しいかな、吾れた夢に周を見ず(私もずいぶんと年をとった。周公の夢を見なくなってからずいぶん時がたつ)」(抜粋)

という言葉を残した。

孔子は、周公旦こそが儒家思想の理想とする政治的文化的制度の創始者と見なしていた

「道路、目を以てす」周の衰退と美女亡国伝説

周王朝は、成王とその子、こう王の代はよく安定していたが、しだいに不穏な状況となる。そして、れい王朝の時に危機に見舞われる。

厲王は強欲ごうよくで無道な君主だった。そして民衆の非難を封じ込めるため厳重な監視体制をしいた。そのため人々は、

道路どうろもつてす」、すなわち道路ですれちがうさいに、無言でめくばせして、憤懣ふんまんを伝えあったとされます。(抜粋)

そして臣下の一人が

たみの口をふさぐはみずを防ぐよりもはなはだし(民衆の口をふさぐのは川の流れをふさぐよりも危険です)」(抜粋)

と諫めたが聞き入れなかった。その結果、民衆反乱がおき厲王は国外逃亡せざるをえなかった。

その後、共和制を経て厲王の子、せん王が即位する。宣王は有能であったが、周の衰退を止めることはできなかった。そして、宣王の子、ゆう王の時代に破局が訪れる。

幽王のお気に入りの褒姒ほうじは笑わない女性であった。幽王が笑わせようと手を尽くすが、何をしても笑わなかった。ある日、外敵もないのに狼煙のろしをあげたところ、諸侯が外敵の襲来と思い馳せ参じた。それを見て褒姒は大笑いした。これより幽王は、しばしば敵もいないのに狼煙をあげ、しだいに諸侯は狼煙があがっても無視するようになった。

やがて、幽王は褒姒を正夫人とし、先の正夫人の申后しんこうの子、皇太子宣臼せんゆうを廃した。太子は母の生国のしんに逃げ込こむ。しんの君主は、異民族に加勢を求め幽王を攻めた。幽王は狼煙をあげるが、諸侯は誰一人駆けつけず幽王は殺され、褒姒も生け捕りになってしまう。ここで、武王が建てた周王朝はいったん滅亡する。

美女末喜ばっきによって滅んだ夏、妲己だっきによって滅んだ殷のてつを踏んで、周もまた褒姒によって滅亡したというわけです。あまりにもできすぎた美女亡国伝説ではありますが、いずれにせよ、中国の古代(夏・殷・周)はそろって名君だった初代天子によって始まり、運命の美女を溺愛[できあいした暴君によって滅亡するというふうに、類似した軌跡をたどったことになります。(抜粋)

その後、諸侯の後押しで、逃亡した皇太子、宣臼が即位しへい王となった。そして、即位後異民族の侵入をうけやすい宗周から成周に遷都した。こうして周王朝の命脈はたもたれるが、昔日せきじつの面影はなく、世は春秋戦国の大乱世へ移行する。

この成周に遷都した紀元前七七〇年を境に、それ以前を西周せいしゅう、以降を東周とうしゅうと呼ぶのが習わしとなっている。

西周の滅亡後、ある重臣が荒廃した旧都鎬京を感慨し「黍離しょり」の歌を作った。

あそこにきびが垂れさがり、あそこにたかきびが苗をだす。とぼとぼ道を歩めば、胸のうちは揺れ騒ぐ。(中略)遥かなる天よ、(古い都をこんな廃墟にした幽王、)それはいったいなんたる人間なのでしょうか」(抜粋)

この「黍離しょり」の歌は、殷の亡国の悲哀を歌った「麦秀の歌」とついをなすものである。

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