『故事成句でたどる楽しい中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第五章 「春眠暁を覚えず」 — 大詩人のえがく世 2 士大夫文化の台頭(前半)
ここから「第五章 春眠暁を覚えず」「2 士大夫文化の台頭」になる。唐が滅亡し、「五代十国」の乱世となる。そして趙匤胤が全国を統一し宗王朝を打ち立てる。ここでは宗の時代の政治と文化が取り扱われる。
「2 士大夫文化の台頭」は、二つに分け”前半“で北宋について、”後半“で南宋、つまり宗の支配地域が江南のみとなった後についてまとめることにする。それでは、読み始めよう。
「五代十国」の乱世
唐王朝が滅亡後、中国は再び南北に分裂した。北中国では、唐王朝を滅ぼした朱全忠の後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五王朝(五代)が興亡し、南中国では、呉、南唐、前蜀、後蜀、南漢、楚、呉越、閩、南平(荊南)、北漢の十国が乱立する。
「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」王彦章
後梁は、十六年で、後唐に滅ぼされるが、この時後梁の将軍王彦章は、降伏を拒否して殺害された。彼は「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」という諺をモットーとして戦った武人だった。
「士大夫」の時代、宋の成立
この五大十国の時代をおさめ、中国を統一したのが、宋王朝の初代皇帝、趙匤胤(太祖)だった。そして太祖とその弟で二代皇帝となった太宗の時代に、各地の節度使から兵権をとりあげて中央の統制下におき、科挙制度を整備して、皇帝みずから試験官となり合格者を決定する「殿試」の制度を設け、文官優先の中央集権制が強化された。
これにより三国六朝時代から唐代までつづく、貴族の時代は完全に終わり科挙に合格した進士が高級官僚となる、近代的士大夫の時代となる。
「一網打尽」宋時代の政治、文化
このような北宗の文治主義は軍事力の低下を招き、モンゴル系の遼やチベット系の西夏に攻め込まれた。やむなく北宋は、毎年膨大な代償を払うことで和平条約を結んだ。
この西夏との戦いに敗れ和平条約を結んだときの皇帝は仁宗だった。仁宗は対外政策では失敗続きだったが、内政では有能な人材を登用した名君だった。仁宗が宰相に清廉潔白で剛直な杜衍を任命した。しかし杜衍は剛直すぎたため怨みをかい、娘婿の公金流用を口実に、わずか七十日で失脚させられた。このとき、摘発した御史が「吾れ一網打尽せり」と言って喜んだ。
この故事により、一度に悪人や罪人を捕えるという意味で「一網打尽」という言葉が使われるようになった。
士大夫知識人の文化
周辺異民族と平和共存した北宋に時代は、士大夫文化が花開いた。『資治通鑑』を著した歴史家の司馬光、大詩人蘇軾(号・東坡)をはじめすぐれた文人・詩人が続出する。絵画の世界でも山水画が確立される。
また、商業も発展し、北宋の首都開封は、大都市となり盛り場には見世物小屋が並び、説話人(講釈師)が活躍し、『西遊記』、『水滸伝』『三国志演義』などの白話(話し言葉)で書かれた中国古典小説の傑作は、いずれも北宋の盛り場芸を母胎とするものである。
「万緑叢中 紅一点」王安石
北宋では、士大夫文化と大衆文化が発達し、商業も繁栄したが、莫大な賠償金が足かせとなり、国家財政は悪化した。このようなとき、官僚の間で、大胆かつ急速に国家改革をしようとする新法党と緩やかな改革を唱える旧法党が激しく争った。
新法党のリーダーの王安石は、厳格な手法をとる政治家だったが、一方北宋有数の詩人だった。
「石榴の詩」の「多くの緑の葉のなかにただ一つ紅い花がある。人を感動させる春景色はなにも量が多い必要はない」の部分はよく知られている。
この「万緑叢中 紅一点」は、多くの男性のなかのただ一人の女性を形容する成句となった。
「春宵一刻値千金」蘇軾
王安石とは反対に旧党派の有力メンバーだった蘇軾は北宋きっての大詩人だった。彼は三度の流刑にあうなど波乱万丈の人生を送った人であった。
彼は多くのすぐれた詩を残したが、「春夜」は、大変有名である。「春の宵のひとときは千金の値打ちがある。清らかな香りを放つ花、おぼろにかすむ月。楼台からは歌声と笛の音がかすかに響き、中庭にはブランコがぶらさがり、夜はしんしんと更けてゆく」。この作品はつかのまに去っていく春の甘美なひとときを、みごとにとらえた作品で、後世、今このときの喜びを尽くそうとするとき、「春宵一刻値千金」の句がしばしば用いられる。
『水滸伝』と北宋の滅亡
新法党と旧法党の争いで北宋の政治機構がマヒした時、即位したのが徽宗だった。彼は芸術的才能にすぐれ、画家や書家として超一流だったが、政治的センスはまったくなく、おべっか使いの宰相蔡京と宦官の童貫を重用し、贅沢の限りを尽くしたため、各地で民衆が反乱した。
この徽宗の時代を反映して、「梁山泊」に集まった豪傑が活躍する『水滸伝』が生れた。この『水滸伝』は、すでに同時代の北宋のころから、語り物として流布し、明時代になってから長編小説として整理された。
ダメ天子の徽宗の時代に北宋王朝は、急速に力を強めた女真族の金の猛攻を受け(靖康の変)、あえなく滅亡した。
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