『故事成句でたどる楽しい中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第四章 「破竹の勢い」 — 英雄・豪傑の時代 1 三国分立(前半)
ここから「第四章 破竹の勢い」が始まる。まず最初は「1 三国分立」である。後漢王朝は、宦官が実権を握り乱れた。そして「黄巾の乱」が発生し、その後また群雄割拠の時代となる。本節では、この混乱が三国の分立となる『三国志』の時代である。
第1節の「三国分立」は、“前半”と“後半”にわけてまとめるとする。今日のところ“前半”は、魏・呉・蜀の三国分立が確立されるところまでである。それでは読み始めよう。
「黄巾の乱」董卓と呂布
後漢王朝の末期は、政治が乱れ社会不安が激化した。そして道教系の新興宗教、太平道の教祖張角が、信者と共に反乱を起こした。彼らは同士討ちを避けるため「黄巾(黄色い鉢巻き)」をしたため、この反乱は、「黄巾の乱」とよばれた。
この黄巾の乱は、後漢王朝が募った義勇軍によって鎮圧されたが、それに乗じて凶暴な武将董卓が洛陽を制圧し、恐怖政治を断行した。
後漢王朝は、実質的にこの「董卓の乱」のよって消滅する。その後董卓は養子の猛将呂布よって殺害される。
「治世の能臣、乱世の姦雄」曹操の登場
このような状況で中国各地は群雄による武力衝突が繰り返される。そして、華北一帯を制圧したのが、曹操である。
曹操は若いころから清流派知識人によって注目されていた。そして人物鑑定で定評のある許劭に「治世の能臣、乱世の姦雄(平穏な時代なら有能な臣下だが、乱世ではずる賢い英雄)」と評されている。
「官渡の戦い」清流派のホープ荀彧と曹操
曹操は、後漢末期の乱世で頭角をあらわし、「官渡の戦い」によって袁紹を倒し華北の覇者となる。
このような曹操の活躍には、清流派のホープ荀彧などの清流派知識人の支援があった。曹操は、「官渡の戦い」以前に、後漢最後の皇帝である献帝を迎えて後見人となり政治的に優位にたつが、これも荀彧らの提案による。
「桃園結義」劉備、関羽、張飛の友情
曹操が華北を支配すると、劉備の居場所は無くなった。この劉備は、黄巾の乱のころに、関羽・張飛を迎えて義勇軍に加わった。『三国志演義』の第一回に、この三人がめぐり合い、桃園で義兄弟の契を結ぶシーン「桃園結義」がある。
「髀肉の嘆」劉備の悲嘆
劉備は、点々と居場所を変えた後、荊州の劉表のもとに身を寄せた。居候状態で、過ごすうちに足の髀に肉がついていることに気づき悲嘆に暮れた。戦場に出ていれば馬の鞍にあたるため髀に肉がつくことはない。
この故事がもとになり、「髀肉の嘆」は、実力を発揮する機会がないことを嘆く成句となった。
「三顧の礼」軍師諸葛亮孔明
劉備が活躍するきっかけとなったのが、諸葛亮あざな孔明を軍師として迎えた事であった。劉備はこの諸葛亮のもとへ三度も訪れやっと会うことができた。これを「三顧の礼」という。
「水魚の交わり」諸葛亮孔明の活躍
以後諸葛亮は劉備のために知力の限りを尽くし大活躍する。しかし、あまりにも劉備が諸葛亮を大事にするため、義兄弟の関羽と張飛は面白くなかった。そのとき劉備は「私に諸葛亮が必要なのは、魚に水が必要なようなものだ。もう二度と文句をいわないでもらいたい」となだめた。
この故事により、親密度の高い交際を「水魚の交わり」と呼ぶようになった。
「曲に誤り有り、周郎顧みる」周瑜と魯粛の主戦論
劉備は荊州の劉表のところに身を寄せていたが、劉表が亡くなると、曹操が荊州を攻撃し、劉備一行は逃げざるを得なくなった。途中長坂で曹操の軍隊に追いつかれ激戦の末、かろうじて脱出した(長坂の戦い)。
ここで劉備に残されていたのは、江東を支配している孫権と手を結んで曹操と対抗することだけだった。そしてそのころ荊州を視察に来ていた孫権のブレーンの魯粛と出会い、話し合った。そして魯粛と諸葛亮が孫権の説得に江東に向かう。
孫権の文官たちは、曹操と戦うことに難色を示すが、孫権の軍師周瑜と魯粛の主戦論が勝利し、孫権は劉備と手を結び曹操と戦う決意を固める。
この周瑜は、軍事的天才であるばかりでなく、音楽センスも抜群で酒席で演奏に間違いがあると、必ず奏者の方に振り返った。「曲に誤り有り、周瑜顧みる」と称された。
「槊を横たえて詩を賦す」赤壁の戦い
そして曹操は南下し八十万の大軍を率いて赤壁に陣を取る。迎え撃つ周瑜、程普率いる孫権軍は二万であった。
曹操は、周瑜との決戦をひかえた夜、長江に船を浮かべて酒宴を催す。そして「短歌行」という詩を作り、管弦に合わせて歌わせた。
こうせい、北宋の大詩人蘇東坡が、「(曹操は)槊を横たえて詩を賦す。固に一世の雄なり」と称えた名場面です。(抜粋)
しかし、八十万の曹操軍は、二万の周瑜・程普軍の火攻めにあい、撃破されてしまう。曹操もわずかな手勢を率い、ほうほうのていで華北に逃げ帰った。
もっとも、こうして大敗を喫したとはいえ、華北における曹操の支配力は小揺るぎもせず、曹操はその後も何度も執拗に出陣し、虎視眈眈と江南制覇をねらいつづけますが、以後、二度とふたたび長江を渡ることができませんでした。孫権と劉備が手を組んで曹操を撃破した「赤壁の戦い」が、いかに重要な戦いであったか、知れようというものです。(抜粋)
「天下三分の計」三国分立の確立
「赤壁の戦い」に勝利して、曹操という共通の敵がいなくなった孫権と劉備は、荊州をめぐって激しい争いをした。劉備軍の軍師諸葛亮と孫権軍の軍師周瑜が頭脳戦を展開したが、周瑜が急逝したため、劉備が孫権から荊州を借用するという形で決着した。
そして、劉備に自立の拠点を築かせるため、諸葛亮は蜀を攻めた。そして劉備はついに蜀全土を制圧する。劉備は荊州に関羽だけ残し主要な配下を職に移した。これにより、曹操(魏)が華北を支配し、孫権(呉)が江東を支配し、そして劉備が蜀を支配するという、諸葛亮の論じていた「天下三分の計」が確立する。
「鶏肋」と「望蜀」漢中での曹操軍の撃退
その後劉備は、漢中に攻撃してきた曹操軍を撃退した。曹操は撤退にあたり、漢中を「鶏肋」にたとえている。鶏肋(鶏のあばら骨)は、捨てるにはもったいないが、食べようとしても肉がない。漢中も同じで無理に奪い取ることもないということである。
そして、『三国志演義』では、「既に隴を得て、復た蜀をのぞまんや」というセリフを言わせている。この「望蜀」は、後漢の光武帝の言葉(ココ参照)であるが、曹操はもとの言葉と意味が違い「隴を得たうえに蜀まで望むとは、あまりに欲張りだ」と自分の欲望に歯止めをかける意味で使っている。
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